靴ひもは、ほどけるくらいがちょうどいい
スニーカーを履いていると、たまに靴ヒモがほどけることがある。
人通りの多い道などで知らず知らずのうちに誰かに靴ヒモを踏まれたのかもしれない。あるいは、時間とともにヒモの結び目が緩んでいき、ゆっくりゆっくりほどけたのかもしれない。
人との縁もこのくらいの「緩さ」がちょうどいいのかもしれない・・・ほどけたスニーカーの靴ヒモを前に、私はそんなことを思う───
そう、縁というのはまるで靴ヒモのようなもの。結んだり、時にほどけたりするのが人の縁なのだ。
生きていく中で人はいろんな縁を結ぶ。
学校の同級生だったり、部活の仲間だったり、社会人になれば同じ会社の社員として、同じ趣味の仲間として。なかには、恋愛という縁、結婚という縁で結ばれる人たちもいるが───
誰かと縁を結ぶ時、くれぐれも注意しなければならないことがある。
それは、きつく結びすぎないこと。なぜなら、そんな結び方をしてしまえば簡単にはほどけないから。万が一ほどこうとした時に苦労するからだ。
例えばもし、縁を結ぶ相手が芸能人や有名人、お金持ちや権力者、自分にとっての都合や、自分にとって条件のいい相手だったとき。
人は手離したくない縁であればあるほど、そこに固執し執着する。
「絶対この人と離れたくない」
「絶対この縁は手放したくない」
その想いが強すぎると、縁がほどけないよう、見た目が蝶結びに見えるだけの「固結び」にしてしまう。人の欲望とはそういうものだ。ただ───
どちらかがその縁を必要としなくなった時に、その縁の「固結び」を後悔することになる。
それは、縁を固結びされた人だけではない。
実は、固結びした人も同じなのだ。
相手に執着するというのは本当に苦しい。
それに、見苦しいしみっともない。頭ではわかっているのに、気持ちが言うことを聞いてくれない。そんな自分を嫌悪しながら、自分ではどうすることも出来ない。
「絶対にこの縁を逃したくない」
そんな風に思う時の人間の醜さをわかっているのに、それでも執着してしまう。その想いを止められない。
悲しくも、執着に囚われた人間というのはそういうものだ。
だから、何が何でも関係を切りたい人は、大きなハサミでバッサリ、その縁という靴ヒモを切るしかなくなる。ただ───
縁を切るためにその「靴ヒモを切る」というのは、双方にとって大きな痛みを伴う。
縁を切る方はまだいい。
自分が相手との縁を失っても「清々する」だけだから。しかし、相手から無理やり縁を切られてしまった方はどうだろう?
最初は悲しみに暮れるだけかもしれないが、その先で憎しみや恨みが生まれることは容易に想像できる。
そこから先はもう、修羅場しかない。
連日のように、どこかで起きている悲しい出来事は、そうした恨みや憎しみから起きていることが多い。縁がもつれたところに事件は起きるもの。
そうなれば、大きな代償を払わされることになるのは、たいていの場合、縁を切った側。理不尽かもしれないが、それが現実だ。
もしその縁という靴ヒモを「切る」のではなく「ほどいた」だけだったら、またいつか、二人のそのヒモは結ばれる可能性があったかもしれないのに、切ってしまったら、短くなった靴ヒモをまた結ぶのはとても難しい。
だからこそ、縁は「蝶結び」くらいがちょうどいいのだ。
ヒモを引かない限り、簡単にはほどけないけれど、もしほどきたくなったときは簡単にほどけるから。
本来、縁というのは人が生きていくうえでかけがえのないもののはずなのに、それぞれが相手の気持ちを考えることなく、自分の思いのままにしようとするから悲劇が起きる。
自分に都合のいい縁、自分にメリットのある縁は、実は縁ではなく、身勝手な欲望であり、相手への執着という「腐った縁」でしかない。
本当の縁は、都合とか損得ではない。純粋に相手を大切に思い、慈しむもの。お互いが、そう思い合えること。互いが互いを思い合う、その気持ちだけだ。それは同性異性、関係ない。お互いが人としてそう思い、感じることが本当の縁なのだと思う。
それに、わざわざ何かを約束し合ったり、縛り合ったりすることでもない。ただ、互いの幸せを祈り、日々の健康を願うこと。そこにあるのは相手への執着ではなく尊重だ。
相手がしたいようにすればいいし、自分もしたいようにすればいい。本来、縁というのは「切る」のではなく「ほどく」ものであり、相手を縛るものではないのだから。
合縁奇縁という言葉がある。
人と人とが互いに気心が合うかどうかは、すべて「因縁」という不思議な力によるものであり、どれだけ望んでも途切れてしまう縁もあれば、ふと気づいたらずっと続いている縁もあるということ。
だとすれば結局、すべては「なるようになる」し、「なるようにしかならない」のかもしれない。
しかしだからこそ、その縁という靴ヒモを日々きちんと手入れしておくことが大事だし、切れて短くなったり、汚れが酷くなったものや、派手だったり奇抜すぎて使い道がないような靴ヒモは潔く手放すことも必要だ。
仮に、そうした靴ヒモが「人に自慢できるもの」だったとしても、自慢できる以外、何の役にも立たないような靴ヒモを大事に抱えているのは、人としてあまりに残念である。
自分の靴に合っていない色そして長さの靴ヒモなのに、醜い欲望や執着にまみれた人は、そのことに気づけない。
道行く人たちの靴ヒモを眺めながら、私は思う。果たして自分は───
欲や執着を手放し、本当に大切な縁を見極めることが出来ているだろうか。
自分の靴に合った靴ヒモを、常に結べているだろうか。
雑踏から少し離れた場所でうずくまったまま、私はそんなことを考えていた。
靴ヒモを結び直し、私は立ち上がる。
靴ヒモがほどけたことで見えたその世界はもう、いつもの雑踏に戻っていた。
たまにはこんな「ささやかなアクシデント」も悪くない。ほんの少し、日々の心のこわばりがほどけたような、そんな気がした。
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