新卒者が退職代行を利用して会社を辞めることについて思うこと
先日たまたまテレビを見ていて目にした「退職代行」。本人にかわって会社の退職手続きを代行してくれるサービスである。
驚くべきは退職代行を依頼する約三割が新卒者であること。入社式の翌日に退職する人もいるという。「聞いていた話と違う」「配属ガチャに外れた」など理由はさまざまだが───
「会社を辞めることぐらい自分でやれ!」
「とりあえず三年ぐらいは我慢して働かないと何もわからない」
そんな声が聞こえてきそうだ。
確かに、自分できちんと会社に行って退職の旨を伝えるのが筋であり礼儀なのかもしれない。どんなに辛くとも、三年働くことでわかること、得られるものはあるだろう。
しかし、それは会社や相手が「理性的でまとも」な場合に限られる。残念ながら世の中はそんな会社ばかりではない。
「入社後すぐに辞められてしまったら、上司として査定に響く」
「手間とお金をかけて採用したのに、それがすべて無駄になる」
会社や上司のメンツは丸つぶれである。
だから、辞めないよう必死に引き止め、それでも辞めるとなれば非難され、罵倒され、嫌みを言われ、場合によっては目の前の飲み物をかけられたり、もっと酷い仕打ちを受けることもある。
そうしたリスクを回避するための「退職代行」なのである。
「そんな根性じゃ、どこの会社へ行ったって通用しない」
「たった数日、数か月で仕事の何がわかる?」
早々に会社を辞めることを否定的に捉えている人が言いたいことはわかる。
しかし、数日あるいは数か月しかその会社で働いていないからこそ、わかることもある。なぜなら、まだその会社に染まっていないからだ。
同じ会社で何年、何十年と働いている人にとっては「当たり前」になってしまっていることが、他の会社や社会では「非常識」で「ロクでもないこと」だったりすることは少なくない。
もし、そんな会社に「石の上にも三年」いたら、どうなるだろう?
持っていたはずの「正義」や「倫理」そして「心」が、会社によって歪められたり、利益のために人を騙し欺くことに何の痛みも感じなくなったとしたら、その人にとってその三年は果たしてプラスになるのだろうか。
世の中には一見立派に思えて、実際は情弱な客を騙してお金をかすめ取るような、詐欺まがい、犯罪スレスレの仕事がたくさんある。
こうした悪しき慣習、非常識という名の常識を「生きていくために仕方のないこと」だと割り切り、それが大人になること、それが働くということだと自分に言い聞かせて日々を死んだように生きている人は多い。
いや、死んだようにでも、生きているならまだいい。
もし、ロクでもない会社で心身を病み、命を失くすようなことになってしまったら?
そんな時、会社は守ってはくれない。もしイヤならいくらでも逃げられたはず、などと無責任なことを平気で言い放ち、そして逃げる。
自分の身は自分で守るしかないのだ。
だからもし、自分の中で違和感を感じたり、本能的に自分に合わないとか、無理だと感じたなら、それが入社一日目だったとしても、辞める決断をすることは間違っていないし、退職手続きを代行してもらうことにうしろめたさを感じる必要もない。
「石の上にも三年」
「とりあえず三年は働いてみないと何もわからない」
そういう感覚しか持っていない会社や人には、残念ながら何を言っても通じない。
そもそも「三年」にこだわる人は「能力がないから三年働かないとわからない」のかもしれないのに、そんな自分の無能ぶりに気づけない。
働いて数日だろうと数か月だろうと、わかることはあるのに。
それに、三年働かないとわからないと豪語する人や、三年働かないとわからないと思い込んでいる人ほど、会社の愚痴を言いながらも会社にしがみついている。毎日愚痴を言うほどイヤな会社、イヤな仕事なのに、それでも続けている。
───そんなにイヤならさっさと辞めればいいのに。
そう言うと「そんな簡単な話じゃないんだよ!」と怒り出す。そんな逆ギレ上司に自分の未来の姿を重ねたら、そんな会社、すぐ辞めたくなるだろう。
時代とともに世の中の常識やルール、そして仕組みはどんどん変化しているのに、こうした残念な先人たちがいつまでも昔のやり方、昔の成功体験にすがり続けてしまったがゆえに、今傾いている会社は少なくない。
毎日を愚痴とルーティン仕事でやり過ごし、新しいことにチャレンジしてこなかったツケが「失われた30年」となり、日本全体をここまでダメにしてしまったのに、それをわかっていない。
経済も政治も、そして映画やドラマ、アーティストさえも、気づいたら、少し前までは下に見ていた国々に追いつかれ、追い越されてしまっている。
無能な大人たちのそのツケを、これから払い続けていかなければならないのは若者世代である。そして、会社で出世するのは能力が高い人間ではなく、上の言うことを文句も言わずに何でも聞くイエスマン。無能な社長とゴマすりしかできない上司しかいない職場に若者は夢を抱き、未来を描けるだろうか。
チャレンジして失敗し、責任取らされるぐらいなら、何もしないほうがいい・・・そんな先輩サラリーマンたちを見て絶望し、入社した会社に早々に見切りをつけて、別の環境へとチャレンジする新卒者の姿は、今の極めて閉鎖的な日本を変えていくようで、逞しさを感じる。
「石の上にも三年」
その言葉は、未来を担う人たちにはもはや「死語」となりつつあるのかもしれない。
我慢だけの三年にどんな意味があるのか。
タイパの時代、我慢を覚えるのに三年は必要ないのだ。
同じ三年なら、我慢ではなく、ワガママに好きなことをすればいい。
人生には限りがある。その限りある時間を少しでも意義あるものにするためにも「価値なき我慢」で時間を無駄にしてはいけない。
勉強もせずゲームばかりしていたら、プロゲーマーになっていた。
テレビばかり見ていたら、お笑い芸人になっていた、そんな人もいる。
好きなことをただただ夢中でやっていたら、自分でも予想していなかった未来が拓けるかもしれない。
たとえ世間的にいい会社に入っても、一見よく見える仕事に就いても、それが本当にあなたにとっていい会社、あなたに合った仕事かはわからない。世間体とか見栄でなく、自分の心が喜びに満ちるような、そんな仕事、そんなコトをすべきである。
もちろん、ワガママに好きなことをするにはそれなりのリスクを背負うことになるけれど、人生は一度きり。
誰かの期待に応えるためではなく、自分のために生きたほうがいい。
新卒者の人たちは、幼い頃からインターネットに慣れ親しんでいる「デジタルネイティブ」なので、膨大な情報のなかから自分が求める答えを短時間で見つけ出すことが得意だ。
だからこそ、無駄な「石の上の三年」を過ごしたくはないのだろう。ただ───
限られた時間内にどれだけの効果・満足度を得られるかを強く意識しているのに、余計な手間や時間のかかるレコードやカセット、フィルムカメラを愛用していたりするのも新卒者たちのような「タイパ世代」の特徴だ。
そして、一見矛盾しているように思えるその行動にこそ、彼らの本質がある。
実は彼らは「何もかもをタイパで捉えている」わけではない。これだというもの、ここぞというときには、時間や労力を出し惜しみしない。つまり、人としての根っこの部分は私たちとそれほど違わないのかもしれない。
今は、私たちにとっての古いモノや懐かしいモノが、若い人たちにとっては新しいモノ、見たことのないモノだったりする時代。
それはまさに「温故知新」であり、まるで「和洋折衷」だ。
そこで私たち大人が「既成概念」というリミッターを外し、もう少しだけ柔軟性が持てたとしたら、どうだろう?
ジェネレーションギャップを敢えて際立たせ、それを互いが愉しんでみることで、もしかしたらベテランとルーキーが一緒になって何か「凄いモノ」が作れるかもしれない。
生きてきた時代背景も価値観も全く異なるもの同士だからこそ、その掛け算できっと、新しい「何か」が生まれるはず。今の日本が浮上する鍵はそこにあるのかもしれない。
新卒者の退職代行のニュースに、私はそんなことを思った。
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