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倦怠感

やるべきことを後回しにする。
閉塞感が私の思考を奪う。
そんなこと事前に容易に予想出来た筈だ。
でも私は義務を果たさなかった。
他者から課された義務に逐一応答していたらキリがないという言い訳が、これまでの私の怠惰を正当化していた。
いや、そんなことは我儘で、法の鉄仮面は人情を裡に秘めているのではないかとの楽観が屹立する義務の観念の存在を希薄にし、私を机に向かわ使め、ペンを走らす助けとなるのである。この義務に対する不感症は、私を信用に足らざる者という椅子の軋み音のような認識を実在的なものに変質させてしまうのであった。
全く、どうしてこんなにもこの世は義務にあふれているのか。どうしてこんなにも生を営むのに面倒事が多いのか。怠け者にとっての掃除が日常的視野に於ける夾雑的要素を仕組む源を押し入れに仕舞うのように、いや、それどころか日常に疲弊した社会人が当に面倒事を後回しにするように、行政がその特有の惰性で不要な為事を整理せず放置する一方で現場はそれに抗う気力を出し渋り、徒に労力ばかりが求められる、あの沈黙を知っている人ならば経験したことのある閉塞感はもはや異常の感覚を抱かせぬほどにこの世に瀰漫している。

虚飾を並べて来たのであるが、実のところ、私はこの自己正当化の源泉を知悉しているのだ。則ち、いっそ死ねば汎ゆる負担を免れることができるという覆し難い誰もが認める真理を私は頼り處としているということだ。己の長期的な生に明確な殺意を示し牽制することによって功利主義の在り方をより単純にしてしまうということだ。
こいつの便利さと来たら留まるところを知らない。こいつは使えば使うほど、私の生は難しいものになっていく。しかしどこまでも、その論理に依って無限に逃避できるのであるし、行動に移す如何の凡ての判断が肯定されるのである。

ただしかし、私はきっと自らの凡ての生の可能性を断つことはきっとしないであろう。こういう惰性にこそ、私をどこまでも嘲笑する資格を付与したい。

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