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トロッコ問題についての短い所感

トロッコ問題。
よく倫理の入門書などで言及される。
トロッコがそのまま走り続けるなら5人の人が死ぬけれど、眼の前のレバーを動かせばトロッコの進路が変更されて1人が死ぬ、というやつ。

その1人と5人がいずれも私が素性の知らない人なら、レバーを引くかな。
私がレバーを引くのを見ている人がいるかいないかに関わらず。
その1人の人の運命を変えたとか、1人の人の遺族に責められるとか、罪に問われるとか、そういうことがその時の自分に予想できたとしても、レバーを引くのではないかと、朧気に謂う。

1人が私の尊敬している人、あるいは親しい人や恋人で、5人のほうは素性の知らない人、もしくは悪人であることが劃然はっきりしている人なら、間違いなくレバーは引かないな。私が5人を見殺しにするのを全世界の人が見ているとしても。死を免れるその1人が私の決断を見ているとしたら若干の迷いは生じるけれども、でもレバーは引かないな。罪悪感と、私が時に非情な者であるという認識をその大切な1人に植え付けたまま、罪の意識とともに生きるだろう。

ところで、より多くの人を死なせるのはより少ない人を殺すことよりも悪いかどうかという観点は道徳に依っていて、どっちのほうが社会を維持する上で都合が良いか、ということに過ぎないだろうし、程度問題なのだと思う。つまり、選択肢をいろいろと変えてみたら結論は変わるだろうということ。どっちの選択肢をとるとどういう結果が待ち受けているか、計算高い人が考えてくれれば結論は出ることになるだろう。でも、それが「べき」の源泉だと言われると、拍子抜けしてしまうな。誰が考えようと、似たような予定調和の結論になるではないか。もっと閉鎖的な関係で、私とそして親しい人との間の、社会道徳は入り込みにくい二人だけの問題として考えるとき、如何ともし難い非対称な私と他者との違いが浮き彫りになるではないか。私も相手もその時が来たら死にたいと思うどころかむしろ不可避な形でその時が訪れるのを待ち望んでいるとして、その人がトロッコの1人の方になった際に、逆の立場だったら私はレバーを引いてほしいと半ば願いさえするけれども、でも私がレバーの前にいるとしたら、私はそうはしないよ。

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