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緊張感を持てない

私は基本的に緊張というものを持たない。

尊敬している上司とかとぱたっと会ったときはそりゃあ緊張はするけれども、思辨的に歯牙にも掛けないようなことばかり宣う上司に対しては、私は耳を喪って了ったかのようだ。

だけれども正味そんなことはどうでもよくて、私が大問題だと謂っているのは、自分の人生に対してまったく本気に成れないことだ。

希死念慮に支配されたときが確かにあって、その名残がいまでも残っているからか、いや、間違いなく残っていて、あした死ねることができるのならまあ多少の罪は宥されるだろうと、いっそ後戻りできぬ歩度に毀れて仕舞いたいと、自棄になることがあるのだ。

これは、特段修羅場というものを経なかった私の人生経験の乏しさが所以か?
そうである部分もあろうが、しかし、実際私が謂い描く修羅場というものを一度経験したとするならば、私は一層破滅願望と云うものの虜になっていただろうと、そう云うふうに懐うのです。
いや、修羅場と云う曖昧な表現はそもそも私の文章には場違いであった、と言って仕舞うのがよいでしょう。
語彙、或いは思惟の伎倆ぎりょうの欠如故の寄道が多いようでございます。
まあともかく、その曖昧さを排して具體的な記述を素にしたとしても、どんな経験をしたからどうかとか、個人が特定の経験に如何なる表象を抱くかとか、そういうのはあまりに多種多様であるのでしょう。
それは当然ジェンダーとかなんとか、見る-見られるの主体-客体的意識・主従関係とか、物心ついたときから身の周りに漂う規範的なアトモスフィアの脚色を免れないわけですが。

一度限りの生に対して本気に成れない、というところまで戻りましょう。
まあともかく私という人間は先を見ないのです。
いや、不安が大きいために先を見ないように思えるのでしょうか?
先を見ないと生きて行けぬ社会にいることがそう云う思いをクローズアップするのでしょうか?
ともかく、絶望に対する最終的な答えは自死であると言ってしまえることが凭る辺となっているのは事実でありましょう。
まあ、そうする勇気はないかもしれませぬが。
父母にも十字架を背負わせてしまうことになりかねませんから。
身内の不幸が遇ったいま、孝徳に意識を支配されるエモーショナルと評するには不敬なほどに繊細な時間が多く、特にそういう観念が強く私の脳裏に浮かび上がる。
それが、持続的な生を私に意識させる。
ほんとうは、そうでなくてもいい、というか、そうであってほしくはないのに。
疲れていると、自我とか、まあ記憶とかひょっとしたら自己同一性とかいってもいいかもしれないけれども、そういうものがなかったらいいのだと、自棄になって了うのだ。

破滅願望を正当化の裏付けに此処までやってきたけれど、その破滅願望というのは、身内の死というもので、簡単に、いや、簡単にと形容するには適さぬほど複雑な謂いはあるのだが、簡単に崩れるほど私の近くには在らぬ、イデアルなものなのだろうと、やはり私はイデアルなものにすがって生きているに過ぎないのだろうと、いつしか想いし恋人と連絡も絶えて久しいいま、私は再び破滅に恋をしていたのだと、まあいろんな観念が浮かんできたわけであります。

破滅に恋をしてもいいよと私に囁く人を望まず、私もそれを口に出すことを望まず、結局は社会的に正しい選択を、将来の自ら、或いは家族を生かす選択を、とってきたほうがよかったのでしょうか?

私にはとんとそれがわからぬのです。

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