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【短編小説】新卒社会人の憂鬱③

↓ これのつづきです



本社の出で立ちは可もなく不可もなしであった。西洋風の内装も同様だ。手動の入り口、丁度一人分の幅のエスカレイター、いくらかの観葉植物、乳白色の石材が施された壁面……、画一的で無聊をもかこつような清廉潔白の断片は、しかし縁故を感ずるほどでないにせよ、その一片の媚態をも思わせぬ佇まいが私の気に入るところとなるのである。

由なき誇張は己を滅ぼす。
私はこれを寄す処としていた。だからといって常に己がそれに準じているという無謬を表すのではない。あくまで道標なのである。由なき誇張の倫理的な悪は誇張や慢心にあるのではない。それの屢々不器量な顕れにあるのである。特に未熟な頃はそれに毒された際の後遺症は大きい。驕傲は憧憬をば先走らせ、相対化さるべきおのが不具に対する内省の目を曇らす。故に、然るべき学習が己の決して及ばざる處迄遁逃するのである。然るに理性は迷走する。この迷走は盲目のみをよすがとしないかもしれない。言葉の持つ磁場への不感症がそれを引き起こすとも云えるのだが、しかしそれが驕傲による不誠実或いは怠慢が故であることは想像に難くない。

エスカレイターを降りた右手に受付があった。自動ドアを挟んで視線が合う。躊躇いはゆるされない。ヒールを床盤に打ちつけて真っ直ぐに身を運ぶ。自動ドアは私を避ける。

「おはようございます!」

私は吠えた。大声を出すのは苦手なのだが、不図、そうした義務の観念が生じたのだった。先の己に似つかわしくない沙汰に依って、すなわち体育会系と云う歓迎さるべき意味合いが付されることを期待した行儀を採ることによって裡なる或る種の倨慢を先立って辯解しておこうと思ったのはたしかであるから、不図、というのは余りに強弁が過ぎるかもしれない。ともあれ、私はそうしたのである。そして、一片の愛想も浮かばない、幼少より土の香を纏う風に鞣されてきた表構を動かさずにいた。

「お、元気がいいねぇ! おはよう」

或る社員は言った。声のする方を横目で一瞥する。褐色の肌に覆われた痩せ型の中年の男だ。懇ろな気風が全身から横溢ほとばしっている。八面玲瓏、という人生で一度も口に出さぬであろう四字熟語が脳裡に連なる。
続けて、若手と思しき男から4階に行くように指示を受けた。私はそれにいらえ、多くのデスクが並ぶ受付の全体を見渡さぬ儘、振り返ってその場を離れた。

エレベイターで4階まで上がり、指定された部屋に足を運ぶ。がらんとした直方体の前半分の空間に折りたたみの3人掛けの長机と折りたたみの椅子が整然と並び、パリッとしたスーツが20人ほど、生真面目な面持ちで腰掛けている。幼少より祖父や父程の年代の男性を過客に迎え歓待してきた私にはこういった角張った場を厭う気質がある訳ではない。均された緊張はその為事を果たさない。しかしいま私の眼前に広がるは、其れ以上の無為だった。則ち、それは大人のおイタと形容されて然るべき諧謔にすら思われたのだ。私は義理や敬仰なしの礼節というものを知らぬのだとこの時自認した。

鼻白んだ私は歩き乍ら粗略な挨拶をする。
「おはようございまーす」
我ながら軽薄なものだ。一方で数人のスーツは殷賑なる挨拶で応じる。私は直ぐに己の未熟を恥じた。だがその恥の観念は激甚の疲労を抱えて帰宅した夜、饂飩うどんを茹でる時のように即席で作り上げたものだということもやはり自認していた。頭に次々と浮かぶ詰まらない観念を薄情に千切りながら、入り口から向かって左端の席につく。三島由紀夫を鞄から取り出して読み始める。周りは事前に配布された入社に当たっての注意事項の冊子や、課されていた事前課題のレポートを読み直しているようだが、私には関係のないことだ。

「小説を読む意味って何?」
洗滌せんでき屋で貰った使い古されたハンガーのような質問が私の襟元に引っ掛けられた。靉靆あいたいとした表情を戻さぬ儘に振り返る。新卒と思しき男が目を細め、口許に嘲弄を携えて佇立している。呼吸困難になるくらい煙たい。それにしても初対面からタメ口か。同期であろうからそれでもよいのかもしれないが、嘲罵の眼差しを向けられながら云われれば腸が煮えくり返るものだ。どうせ次に私が何を言おうと、"Men Explain Things to Me"なのだ。
「意味なんてないですよ」
これが最適解だろう。私に詰まらぬ教えを講じようとするな。
「時間が勿体ないよ、人生短いんだから」
思いのほか早く収まりそうだ。
「まあ趣味なので」
視線を再び本に戻す。

心情を言葉にするというのが、いや、心情が先であり言葉、というよりもシニフィアンが後であればの話であるが、それは心情の模造シミュラークルを創ることなのである。読書体験というのは、その模造が己の基底材に射影されることなのだ。読書の意味を尋ねる人は乃ち、そこで映し出された影の様態を言葉にして表明したいのであろうが、ならばまた模造を作らねばならぬだろう。しかし贋作の模造シミュラークルに命を賭せる、そうでなくとも心血を注げるのは自分でなくして誰がいるだろう? その労務に爾はどれだけ骨を折る心算があるのだ? そう反語混じりに尋ねたかった。
代補程度のつながり、唯其れだけでしかないよわくも切実なかかづらいにあって、寄り添いたい気持ちを筐底に秘して離れずとも近づき過ぎない隔靴搔痒の感を、母性とマゾヒズムの慾望を、都会への憧憬とノスタルジーを具有した感情を喚起する体験。目の前の男はこの高尚にも思われしかし考えるほどに卑俗さを増す感覚を知らぬのだろう。



人の気配を感じて視線を上に遣った。年次の上の社員が来たようだ。男が3人、女が1人。男の1人はそのなじるような視線で私の顎に触る。不愉快に謂い乍ら、新潮文庫の栞紐スピンを態とゆっくりと戻す。まだ4分前じゃないか。此の不文律は私の他人に対する、いや、権威に対する敵愾心と重なり合って、無言の反逆者特有の斜交いの心術を誘導した。

「はい、それじゃあちょっと早いですが、始めちゃいましょう」
背が低く整った顔立ちをした未だ若そうな男が、高い声で切り出した。





今日は疲れちゃったのでここらで書くのやめます
またいつか続き書きますね

新社会人の方、いっしょにがんばっていきましょう!

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