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いつもより長めの日記

自分の過去は、けっこう自分を殺しにやってくる。

自分の情けない過去は不死身だ。

そいつの侵攻を止めることはだれにもできない。

夜に来ることが多いんだけれど、いつ何時でも、ふらっと現れては私を傷つける。

(ほんとはショートショートっぽくしたかったけど、ここでやめます。)

どうにもしようがないことがわかっていても、私は過去を悔やんでは自分の唇を固く噛む。

自分がすべきことは目の前のことを一生懸命やることだって頭ではわかっているのに、私はより重要なことを考えることをやめ、過去をたくさんひっぱり出してしまう。

どうやったって、これをなにか別の無害なものに昇華させることは不可能に思える。

過去を中長期的に正当化できるのは、何かしら人生が上向いたとき、そこそこ希望が持てるだけの安心感がそこそこの期間持続すると予想されるとき。
でも、そんなこと頻繁に起こるものじゃないから、日常生活の中で、自分で自分を認められるようにしなくちゃいけない。

だから、自分の力でいまを納得感のあるものにしていくってのは大事。

いかにして自分の力でいまを納得感のあるものにできるかというのは、(私は同じようなことを繰り返し書いていてくどいかもしれないけれど、)やっぱり国語力、つまり推論を積み上げる能力と思考可能性の認識としての語彙に依るところが大きいと思っていて、それは“ある程度のリテラシー”と“リサーチ力”、”深堀りしたい分野の体系的知識および語彙力”が必要なんだ。リサーチ力についてはここに並置するほどのものでもないかもしれない。

あと、大学受験とか就職活動とかで心から行きたいところにチャレンジしてみることが大事なのかなぁ。私は大学受験は半分成功、就職活動はかなり失敗の部類だけれど、ちょっと背伸びしてもいい環境があるなら、やっぱりトライしたい。
自分に対する他者の評価や努力の過程については、あとから振り返ってみれば後悔があるもの、納得のいかないものになることは私に限らず多いだろうけれど、その道を選択したっていういっときの決断自体に納得感を持つことって簡単だし、そのことだけでむかしの自分をかわいがってあげたくなる。


過去は消えないし、それをよいものとして昇華することは人生の大半で無理かもしれないけれど、これ以上くだらない過去をつくらないためにも今をがんばりたいし、自分の中の大事なものは譲らないようにしたいな。
そして、子どもたちには自分の道を選ぶだけの力を身につけさせたいし、政治・社会問題を自分ごととしてちゃんと考えていくことによって、微力ながらもそういう環境づくりに一役買うことができればいいな。

まだまだ未熟だけれど、あと半年ちょっとで社会に出る人としての、また子どもに関わる職業を選んだ人としての想いをまたいつか振り返ることができるように、ときどきここに残していきたい。

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