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見失ってはいけないもの、誤解してはいけないもの

今日、久々に怒りに満ち溢れて、一人で英語でひたすら喋っていた。(独り言)

意味がさっぱりわからなかったから。

教育活動をしていて、どうして熱を持って正しいことを教えてはいけないのか意味がわからない。

学生は家族からもらった貴重なお金を払ってまで、自分が日本に行けるという未来に時間をかけて勉強しているのだ。教師が実際に、「せっかくお金を払っているんだから、もう少し頑張れ」と言っている場面を何度か見てきた。

そんな身からすると、私たちも正しいことをしないといけないと責任感を感じるものだ。

しかし、どこの会社でもあると思うが、喧嘩を恐れ、何も言わない選択をする人がいる。

前にいた人たちが〜だったから。とか、文化の違いがあるからとか。

そんなの関係ない。グローバル社会の中、そんな衝突なんていくらでもある。だけど、喧嘩をすることで学ぶこともある。初めて、その人の意見や考えを知ることができるからだ。自分とは違う意見だからといって、遠ざけるのではなく、共存していくために理解しようとしあうことが重要なのだ。

確かにただ喧嘩をしたい。あの人が嫌いだからという理由で喧嘩をわざとすることは面倒なことだが、「この教育現場・教育をより良いものにしていこう。」と思って発言するには、いいんじゃないのか。そんな風に思った。

教育をする中で、大切なこと。以前にも書いたかもしれないが、それは正しいことを教えること。学生たちが日本で働くために、日本に行った後に困らないように教えること。日本社会や日本文化(日本人の行動やその理由)を理解している方がより自然な「日本」をそして日本で当たり前とされてることを教えやすいと思う。

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外国人に教えていて、よくあることだが、

「先生、トイレに行ってもいいですか。」

と学生がいい、授業中にも関わらずトイレに行く。

これっていいの?と日本人として素直に思った。

だって日本では、学生の頃から、休憩時間にトイレを済ませることを教えられ、会社に入っても、(会社にもよるが)勤務時間中にトイレに行くと、「休憩時間に済ませなかったあなたが悪いんだし、タイムカードをきちんと遅てよ」と指導されることもあるだろう。そこまで厳しくなくても、何度もトイレに行くと、周囲から変な目で見られたりする。実際に以前働いていた会社でもそうだった。タバコを頻繁い吸いに行く上司に対して、周囲のいろんな人が「〜さん、また休憩してたよ。」と言われていた。

現在の学生の半数以上が、授業中にトイレに行くことを悪いことだと思っていない。なんの躊躇いもなく、長時間のトイレに行く。でも日本に行って、それをすると給料が減る会社もある。それが事実だ。

彼らが日本に行く前に、きちんと日本のルールや会社でのルールについて教育しておかないと、

「(トイレには行ったけど)どうして給料が減るの?」と学生からいつ質問されてもおかしくないし、

「どうして日本に行く前に、きちんと教育しなかったの?」と企業様から問われてもおかしくないと思う。

そんな中、今日あるクラスでそういった文化について、伝えた。(会社によって異なるので、給料が減るとはいっていないが)「トイレは休憩中に行きましょう。」とだけ伝えた。

そのことをある女性に伝えると、真反対の回答が返ってきた。

「そうなんだ。でもね、私はそれを言える立場じゃないの。だから、普段学生を見ていて気になってはいるけど、スルーしているの。」

なんだかそう言われた時、ムカついた。彼女は謙遜してそういったのかもしれないが、どうか「=(〜ちゃんも)私もそういう立場だから、言わないでね。」と言われているような気がした。けれど、彼女はその言葉を強調して何度も私にいった。

間違いだと思ったことを、注意してはいけない先生なんているの?そう思った。

彼女の言い分はこうだった。

「だって、そのクラスに教えたら、他のクラスにも教えなきゃいけないでしょ。しかもここは〇〇〇〇(国)だから、私たちは外国人なんだよ。剛に従えってよくいうじゃない。だから、上の人にも言えないし、他の〇〇〇〇(国)出身のスタッフにいちいち言わないの。喧嘩したくないから。前にもそういう衝突があって続かなかったんだって。小さいことを気にしていたらキリがないから。」

もう意味がわからない。失敗から学ぶことはいいことだが、どうしても全てに同意することができない。

冷静になって彼女の論点について整理してみることにした。

1)「そういう立場じゃない。」「剛に従え。」という意見。

→学生の目標が日本で働くことで、私たちは彼らが日本に行った後に直面するであろう文化や言葉の壁を少しでも減らすことが目的であるならば、「日本」で正しいことを教えるべきである。誰が外国人だなんて関係ない。学校外での生活に関しては剛に従うべきだと考えるが、教育現場では必ずしもそうではない。

2)「その時に説明したら、他のクラスの学生にも教えなくてはいけない。」という意見。

→確かにそうだ(一部同意)。しっかりしたカリキュラムの中で教えることは素晴らしいことだ。カリキュラムと実際の教師の発言に矛盾が出てはいけないが、日本人の経験を踏まえて、その都度学生にとって必要なときに教育することもいいことなのではないか。よくいうが「教科書の中で勉強し、筆記テストでいい点数が取れても、実際にその言葉を話せるかどうかはわからない。」ということ。体験することで学ぶこともある。

また、教師はロボットではないということにも触れておこう。そういえば以前勤めていた学校の面接でも、同じことを言ったな。「翻訳機能が発達する中で、教師は人間にしかできないと思います。」更なる経験を経た今でも、同じように思う。例えば、授業中に学生と教師で会話や質疑応答をする。これは人間にしかできない。微妙な感情のやりとりや、さまざまな文化を背景した言動も同じだ。

学生との会話を経て、彼らに必要なことをその都度判断する必要もある。

3)「喧嘩をしたくない。(前例から見ても、喧嘩すべきでない)」という意見。

→確かに、学校運営を継続させるために、必要なことかもしれない(一部同意)。学生のためにも。

ただ、異文化理解を勉強してきた私は、文化間の考えの違いが必ずしも衝突になるとは思わない。異なった意見を持った人間とコミュニケーションする際も同じだが、自分が思っている考えを言ったり、相手の考えを聞くことで学ぶことは多くある。文化的背景が違えば、より異なった考えが得られ、学ぶこともより多いだろう。こういう考えだから、私は素直に相手に伝えるし、一生懸命話を聞く。そして、違った考え方を持つ人たちとのコミュニケーションを心から楽しむことができる。また、心の問題だが、自分が思っていることを話すと、相手に対して意見を言いやすい雰囲気を作ることができ、素直に考えを言ってくれていた気がする(これまでの人生)。私はこの生き方が楽しいから、変えるつもりはない。

4)「小さいことを気にしない。」という意見。

→小さいことだからといって、無視していたら、いずれ大きなことになるので賛同はできない。学生や受け入れ企業様のためにも、小さなことにも気にかけ、正しいをことを教えていくべきだと思う。

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最後に、教育は人を作る仕事だ。

責任がある。正しいことを教える義務がある。

誰がどこにいようが関係ない。

そして、活動の背景には必ず私たちが掲げている目的があるべきだ。

活動の目的を誤解してはいけない。忘れてはいけない。

目的に向かって動くべきなのだ。





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