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アリガトウとゴメンネの境界

 ある身近な人物から、よく「ありがとう」と言うべき場面だと感じるにもかかわらず、「ごめんね」と言われることがあります。そこで、「ありがとう」と「ごめんね」の違いについて個人的な考えをまとめていたら、様々な気付きがあったのでここに記録しようと思う。

アリガトウとゴメンネの意味

 アリガトウは、「他人のおかげで自分が利益を得たときに感じる、の感情を伝える言葉」です。

 ゴメンネは、「自分のせいで他人に損失を与えてしまったときに、負い目の感情を伝える言葉」です。

 一見、これら定義の違いから、「アリガトウは自分に利益があったとき、ゴメンネは他人に損失があったとき」と安易に識別してしまいそうですが、それは落とし穴である。自分の利益と他人の損失は同時発生することが多いため、そのような状況でも適用できる境界を定めなければなりません。

 そこで個人的に提案するのは、「相手がその結果に対して能動的だったならアリガトウ、受動的だったならゴメンネ」となる説である。

アリガトウとゴメンネの境界となる例

 以下の例(①②)では、アリガトウとゴメンネの選択は確定的かつ非可換であるように見える。

①他人の物を借りたらアリガトウ。
②他人の物を壊したらゴメンネ。

 しかし、以下の例(③④)のように状況や心理によって逆になる場合がある。

③自分の過失で他人の物を借りざるを得ない状況(パチンコで負けて娘の貯金から借りないと生活していけなくなったとき等)は、借りることになってゴメンネとなる。
④物を壊すことが共通の目的だった場合(一緒に斧の切れ味を試そうとしていたとき等)は、他人の物を壊させてもらってアリガトウとなる。

 既出の例(①②)も正確には、状況や心理を以下の通り限定した場合に成り立つ。

①´他人がそれを望む状況で、自分のために他人が物を貸してくれたからアリガトウ。
②´他人がそれを望まない状況で、自分の過失により他人の物を壊したからゴメンナサイ。

ゴメンネばかり言ってしまう原因と対策

 これまでの結論より、アリガトウをゴメンネと言ってしまう現象は、相手の能動的好意を、自分のミスのせいだと取り違えた場合に発生すると考えられる。その背後要因として、以下(1,2,3)のような心理状態が想定できる。

1. 自分への好意が信じられないから
 自己評価が低く、自分が他人から能動的好意を受けるほどの人間ではないと思い込んでいる。だから、相手の好意の存在を信じられず、介護を受けているかのように「自分が至らないから相手が動いたのだ」と錯覚する。

 この場合、小さな業務から挑戦させ、成功したら感謝を伝え、自己肯定感を上げていく必要があるだろう。

2. 自分の役割を奪われたくないから
 相手の好意と認めると、それが自分の役割でなかったことになるため、自分の存在意義が減ってしまう感覚がある。だから、たとえ相手の好意であったとしても「本来それは自分がすべきことでだったことにして、自分の存在意義を確保していたい」と無意識に考えてしまう。

 この場合は、得意分野を見つけてあげて、その分野を丸っきり任せ、「あなたにしかできない」と責任感や存在意義を創り上げていく必要があるだろう。

3. 自分の力による手柄にしたいから
 相手が自分のために困れば困るほど、自分の立場が優位であるように錯覚する。だから、たとえ相手の好意だったとしもそれを認めようとせず、「自分の権力や魅力により、相手は本来したくないことだけど、奴隷のように自分のために叶えてくれたのだ」と思い込もうとしてしまう。

 この場合は、相手への感謝の気持ちが欠如してしまっていると言える。しっかりと「それをゴメンネと言ってしまうと、相手の好意を否定することになって失礼じゃない?」と伝えてみる必要があるだろう。

介護でも奴隷でもなく、対等な関係へ

 個別の状況よりも、そもそもの普段からの2者間の関係性が歪んでいることが、更に根本的な原因である可能性がある。

 マズローの欲求5段階説に基づいて言えば、2段目の「安全の欲求」が満たされていないと、「自分のミスをカバーしてくれる人の存在」を追い求めてしまうのかもしれない。その場合、その上段の「所属の欲求」という、他者と対等な関係を構築する欲求に進めないと思われる。

 対等な立場でなければ、何をしてあげても介護か奴隷である。それを求めている間は、ゴメンネの沼から脱却できない。

 その身近な人物が、自分自身の内面によって「安全の欲求」が満たされるよう、自立支援を進めて、対等な関係にしていきたい。

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