無神論者&科学信仰者の初詣

私は無神論者であり、科学信仰者である。

どのぐらい科学信仰が厚いかというと、小学校入る前から、公文式で数学を学び、乱数を使ったゲームプログラミングをしていたため、中学の修学旅行でおみくじにお金を払うクラスメートを見て、

「乱数プログラムで作った文章を印刷した紙きれにお金を払ってなんの意味があるの?」

と正直思ったりもしたのだが、100円だったか200円だったか初穂料(勉強料)を払い、おみくじを木に結ぶことにはこういう意味があるみたいなことを教わりながら、世の中は合理性だけで生きている人ばかりじゃないんだということを学ぶことができた。
※この出来事がなければ合理性至上主義の過激な科学信仰にはまってもおかしくなかった、義務教育は教科書に書いてあることを教えるだけでなく、集団行動を通して偏った人間に「普通」とは何か?ということを教える点で大事である。

と思うぐらい、合理的な考えに毒された人間である。

やがて初詣に一度も行くこともなく大人になり、正月はゲーム三昧で過ごすことが多かったが、スポーツ自転車を買い、アウトドアをやるようになり、イングレスで寺社に多く通うようになって、年始のお参りをすることも増えてきた。

科学を信仰し、合理性を重視すれば、神様に頼る必要はないのだが、アウトドアでハードなチャレンジをするうちに、
・どんなに自分が安全運転しても運が悪ければ事故は防げない
・毎回、旅行から無事帰還できたことに感謝しよう
と思うようになった。

祈るのは、「運」のステータスを上げて事故を回避しようなどというわけではなく、リスクがゼロではない遊びをするのだから、昨年1年間、事故に遭わなかった幸運に感謝し、今年も「実力」でリスクをゼロに近づける努力を怠ってはいけないことを誓うためにお参りするのだ。

お賽銭は10円のことが多い。信仰の厚い人は5円玉を用意するらしいが、10円玉だろうと御利益は変わらないと信じて疑わなければ、適当な小銭でよいのだ。二礼二拍一礼は東方風神録(ゲーム)で覚えた。

そして今年の初詣では、お神酒を頂ける場所があったので、初めてお神酒を頂くことにした。朝からアルコール摂取など合理的ではないが、新しいものにチャレンジしたくなったのだ。

お神酒を頂く場所に近づくと、お巫女さんが小さな盃に注いで渡して頂けるようだった。なるほど。さっそく私も頂こうとそこに近づくと、盃の横に「お気持ちをお供えください」と書かれた箱に100円玉が並んでいるのを見て、さすがに10円で済ますわけにはいかず、小さな盃のお酒に100円を払う羽目になった。

くっ、商売上手だな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?