『近代日本の音楽百年』の書評で書けなかったこと、書ききれなかったこと

書評集「私たちにとっての近代日本音楽史――細川周平『近代日本の音楽百年』読書会記録」『人文×社会』第5号

自分の担当箇所は、要するに、明治以降を対象とした日本音楽史研究の中で、『近代日本の音楽百年』のオリジナリティは何かという話です。
基本的な内容はこんな感じ

ただ、時間の関係や未消化だったことから書けなかった部分が多いこと、そして「結局、お前にとって近代日本音楽史は何なんだ?」ということが全然書けなかったんで、ここで供養しときます。
※他の投稿者の内容や企画全体とは関係ない駄文なので、よろしく

①堀内敬三と細川周平との共通点

今回の書評を書くために、堀内敬三や細川周平の著作を最初から読んでいたけど、(違いは当然として)両者とも、大衆音楽研究をきっかけに近代日本音楽史研究の入った点は面白いと感じたところ。
・堀内敬三…西洋音楽の紹介や歌謡曲の作曲・作詞(訳詞も)
→『世界音楽全集 明治・大正・昭和流行歌曲集』以降、近代日本音楽史研究の著作を発表
・細川周平…音楽記号論、海外の音楽動向の紹介、サッカー
→「西洋音楽の日本化・大衆化」の連載以降、近代日本音楽史研究の著作を発表
プラスして、両者はそれまで、海外での音楽の動向を中心に取り上げていたのも共通するところ(だからどうしたということなんで、この部分は削ったわけですが・・・多分、この本を上手く使えば、論じることが出来たんじゃないかと)

②「大衆音楽史」を研究するモチベーションの違い

細川周平のみならず、大衆音楽史を研究する理由として、クラシック音楽中心の音楽教育や音楽文化への対抗という図式がよく用いられているんじゃないかと感じているところ。(『近代日本の音楽百年』でも「上(野)から目線」ではない音楽史を目指しているというスタンスからも、恐らく意識しているのかな?と。)
一応事例ということで日本音楽史・民俗音楽学者の小島美子を挙げますと…

音楽はこのように何よりも自分たちの感覚に自然にやることが出発点だ。(・・・)こうした方向をめざす場合に最大の障害になっているのは、学校の音楽教育である。今では教材に日本音楽や民族音楽も少しずつ入っているが、全体のシステムはやはりクラシックの原理にもとづいている。だから歌う場合にもクラシックの発声だし、リズムも、音階も、ハーモニーも、強弱のつけ方なども、すべてヨーロッパ人の形を理想として教えている。(・・・)こうしていい音楽はクラシックであり、他の音楽は悪い音楽であるという考え方を、学校では無意識のうちにたたき込んでいる。これは大変な文化の差別感を教えているのである。国際性を養うどころか否定しているのであり、こういう考え方が文化摩擦を起こしているのである。
(・・・)これに対して私の主張は、それぞれの民族はまず自分の文化、自分の音楽を大切にして、そこから新しいものを作っていこう、そしてお互いにそれぞれの民族文化が豊かに発展するように尊重し合おう、というのである。

小島美子『音楽からみた日本人』pp.230-232(1997)

内容は全くもって賛成(小島先生の爪の垢を煎じて飲ませたい人は割とたくさんいるんで)。ただ『教養教育再考』の小島美子の体験を読んでいると、こうしたクラシック音楽中心の音楽教育批判の源は、小島先生のクラシック音楽中心の音楽体験にあるんじゃないかと思うところも。

個人的な体験としては、確かに自分の受けてきた音楽教育はクラシック音楽中心だったけども、そこからクラシック音楽に触れ始めたわけでもないし、そことは関係なしにアジカン、相対性理論、平沢進、アニソン等々に触れてきたわけで。正直なところ、音楽教育の内容がどうかというのは、自分の音楽趣味には全く関わりの無いという感じがしている。(これまで受けてきた先生方には悪いけども)
そもそも、「日本ではクラシック音楽が支配的だ」という考え自体も疑わしいところ。むしろ、『趣味の社会学』を読んでると、クラシックでもポピュラーでも何でも聴きます勢が(とりわけ男性・ホワイトカラー層ということはあるけども)多いというデータもある。

そう考えると、「クラシック音楽中心の状況」を批判することが大衆音楽史研究の目的になり得るのか?、じゃあ(大衆音楽も含めた)近代日本音楽史研究は何をモチベーションにやるんだろうかと思うわけです。

③結局、お前にとって近代日本音楽史は何なんだ?

「じゃあ、お前はどうなんだ?」という話ですよ。
結論から言えば、「クラシック音楽を上手く受容できた日本人すごーい」という結論にならずに、紹介と反発のダイナミズムの中で、それがどのように調整されていく過程を記述する近代日本音楽史ということかと。
「クラシック音楽を上手く受容できた日本人スゴイ」や「日本人はクラシック音楽を「本能的」に受容することができたんだ(ドヤァ)」という図式は、堀内敬三以来の古めかしいものなので、出来れば避けたいし、「普遍」を身に纏った西洋帝国主義的な「音楽観」を押し付けることになりがち。(残念ながら、学術書のレベルでもこの図式を何の批判無しに使っている人もいる。敢えて挙げないけど)
むしろ、なんで西洋音楽の、特に芸術音楽=クラシック音楽が受け入れられるまでの「素地」がどのように作られていったのかを、見るのが面白いというのが、自分の思っているところ。
(それまでの研究では、ブルデューの「文化資本」の枠組みとか採用されたり、「教養主義」とか言われているけど、何でそこに西洋芸術音楽が?という問いにならないのがなぁ)
その「素地」を社会に持っていくのか、思想に持っていくのか。いろいろと整理しながら、研究している途上でして。

色々と日本の「近代」音楽史研究の枠組みを考える材料としては、読み応えのあるものじゃないかなぁと。研究の上でも教育の上でも。



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