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宇宙を心に宿す、喚起の劇場──ナフーム『Another Life』『軌道のポエティクス』評

塚田有那
(編集者、キュレーター、一般社団法人Whole Universe代表理事)
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 「さあ、目を閉じて、ゆっくり呼吸してみよう」。そんな声からパフォーマンスは始まった。ほのかに赤い光が灯る室内で、観客は全員目を閉じる。息を吸って、ゆっくりと吐き出す。体内をめぐる息のありかに集中していくと、少しずつ力が抜け、腰かけた椅子の感触を感じながら、体はどんどんとリラックスしていく。なかば眠りかけそうなところで、ガイドの声が漏れ聞こえてきた。
 「いまから一段ずつ階段を降りていきましょう」。その声に従って、脳内でイメージした階段がするすると下へ伸びていく。「1、2、3…」とカウントされる度に階段を下り、最後は大きな扉の前に立っていた。「いまから、それぞれの旅が始まります」
 扉をひらくと、もやのかかった一面淡い色の景色があった。

一人ひとりの中に宿る「無形のアート」

 これは、ベルリンを拠点に活動するアーティスト、ナフームのヒプノシス(催眠)メソッドを用いた体験型パフォーマンス「Another Life」の冒頭の記憶だ。ナフームの扱うテーマは宇宙テクノロジーと瞑想的メソッド。その組み合わせに首を傾げる人もいるだろうが、彼の哲学は一貫している。「誰の中にもある宇宙を想像すること」、それがナフームの生み出す演劇的体験の本髄だ。シアターコモンズ’20では、観客を瞑想状態に誘う『Another Life』、宇宙をめぐる政治と文化政策についてポエティックに語られた『軌道のポエティクス』と2部構成のレクチャーパフォーマンスが展開された。
 『Another Life』では、ナフームの誘導によって(正しくはナフームの脚本を読み上げる通訳者のガイドによって)、観客それぞれの脳内で物語が進んでいく。はじめは自分の記憶にある光景から、どこかの映画で見たようなワンシーン、宇宙の片鱗、数百年後、数千年後の未来の景色…、「白昼夢」とはこういうものだったかと思い起こされる情景の連続。そこで喚起される無数のイメージは、観客それぞれに固有のものだ。ナフームはそのイメージこそが、一人ひとりの心の中に宿る「無形のアート」だという。
 ロンドンのアートスクール時代にヒプノセラピーを習得したナフームは、人々の深層心理にはたらきかける手法としてヒプノシスを作品に用いる。といっても、体が動かなくなったり、思ってもみないことを口にしたりといった、いわくありげな「催眠」とは似て非なるものだ。実際のヒプノシスは人の内在意識に働きかけるセラピーの一種であり、誘導者が恣意的に暗示をかけるものではなく、個々人が自発的にイメージを醸成していくそのプロセスにこそ意味がある。ナフームが重きを置くのは、あくまで「人々の持つイメージを喚起する」ことにあるのだ。

深層のイメージがひらく、喚起の劇場へ

 イメージを喚起するとは何か――ベケット研究で知られる岡室美奈子の論文『BECKETT, YEATS, AND NOH: ...but the clouds... as Theatre of Evocation』[1] では、サミュエル・ベケットの『...雲のように...』を題材に、アイルランドの劇作家ウィリアム・B・イエイツ、そして日本の能楽との相関を論じるにあたって「喚起の劇場」というタイトルで括っている。もともとは演劇研究者キャサリン・ワースによる言葉が由来だ。降霊術の研究にも熱心だったイエイツは、日本の夢幻能に深い影響を受けていたというが、岡室によればベケットの『...雲のように...』は能楽とイエイツ両方からの影響が見て取れるという。まず顕著なのは舞台セットだ。能舞台を思い出すとわかる通り、能楽において舞台上の動きや小道具は最小限にとどまっている。劇中で鬼が出ようが女の亡霊が喋りだそうが、「観客の想像力がその背景やセットをつくりだす」のだ。『...雲のように...』もまた、見えないテーブルや椅子を囲みながら物語が展開される。
 「能は霊の喚起を特徴的にドラマ化しているという点において、イエイツにとっても本質的な関心事だった」と岡室は指摘するが、それはオカルト的な興味にとどまらず、「私たちが半分眠っている」ような現と幻の間に立ち現れる、精巧なイメージへの希求だったのではないか。能では主人公であるシテのもとに霊が憑依し、その霊になりかわって語り始めるというイタコ的状況が数多く描かれる。シテの中で自己と他者の境界が曖昧になるあわいの時間、その情景を想像する観客の脳内にも、見えない霊の気配はしかと刻まれている。目前に表出していなくとも、その存在を感じることはできるはずだ。あたかもベケットが『ゴトーを待ちながら』で、舞台上に一度も表れない「ゴトー」をつくりだしたように。岡室は先述の論文をこう締めくくっている。「能は彼(ベケット)を惹きつけたに違いない。それは、夢のような状態で誰かが来るのを待つ芸術(the art of waiting in a dream-like state for someone to arrive)だからだ」。

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見えないものへの想像力

 ナフームの『Another Life』もまた、夢のような状態で「何かが見えてくる」状況を喚起する。タイトルの「もうひとつの生」とは、人生をやり直すとか心新たに生まれ変わるということではなく、イメージ上で無限に想起することのできる生の痕跡だ。いまここにないもの、見えないものへの想像力が、新たな生の可能性を示してくれる。それはあたかも新型ウイルスによって世界中が変動するいま、とても示唆的なメッセージのようにも思える。目に見えないウイルスを除去するべく毎日アルコールで手を除菌し、感染者数のデータに一喜一憂している私たちは、いま何が「見えている」というのだろうか。
 実は先述した岡室の論文は、盟友である情報学研究者ドミニク・チェンのツイートで知ったものだった。彼は「Evocation(喚起)」という言葉の対比として、「Representation(代理表象)」があるのではないかと指摘した。美術用語としては「描写」や「上演」などの意で使われる言葉だが、現在のメディア状況に置き換えてみると、複雑なデータをわかりやすくビジュアライズするのも、ド派手なパフォーマンスで注目を集めるのも、「映える」写真をSNSに投稿するのも、何らかの意図をもった「代理表象」といえるだろう。もちろん表象は社会にとって必要なデザインだが、いま失われているものは「喚起」の力のほうではないか。そう直感した私はすぐさまドミニクにコメントし、2人で登壇する機会がある際にはよくよくこの「Evoation(喚起)」について対話した。
 勢いあまって「School of Evocation(喚起の教室)」なる会を1日だけ発足し、親しい友人たちと語り合ったりもした。会場の恵比寿周辺をぶらぶら散歩し、何か喚起されるもの(“エヴォみ”と呼んでいた)を探すという「ブラタモリ」のような企画だが、妙に充実した昼下がりの記憶がよみがえる。「あの電柱の角度が気になる」だとか、「この壁の風合いがいい」だとかを言い合ってにやけるだけなのだが、エヴォみを探していくうちに恵比寿の景色が変わってくるのだ。このエヴォみについて、私はよく「入り口の佇まいだけで入ってみたくなる地方の小料理屋」と説明するのだが、食べログ評価が何点だろうが何の看板もなかろうが、醸し出される雰囲気の妙を感じ取る嗅覚のようなものとも言えるかもしれない。

宇宙は誰のものなのか

 話は大分それたが、ものごとの奥を想起すること、見えないものの気配を感じることは誰もが持つ能力のひとつだと思う。ナフームはこの喚起性を宇宙と人類にまで拡大する。後半のレクチャーパフォーマンス『軌道のポエティクス』では、宇宙をめぐる人類の歴史への問いから始まった。アーティスト活動にとどまらず、「KOSMICA」という宇宙とアートをめぐるプラットフォームを主宰し、パリのIAF(国際宇宙航行連盟)において文化用途技術委員会の議長も務めるナフームは、各国の政治が渦巻く宇宙開発の土壌に「文化」という種を育む実践を続けている。
 1969年、人類は史上初めて月に降り立った。これは誰もが知る歴史的事件だが、ナフームはこう付け加える。「1969年、32名の白人男性宇宙飛行士が、史上初めて月に降り立った」と。このとき、月への宇宙飛行を志願した女性がいた。ナフームはNASAからその女性に送られた手紙を読み上げる。「残念ながら、このミッションに女性は参加できません」。そこには前例がないことや身体的能力の観点から女性が外された旨が書かれていた。
 それはなぜか。当時のアメリカの社会状況を考えればダイバーシティなんて概念すらなかったことはゆうに想像できる。たとえ今では女性宇宙飛行士の参加が可能になったとしても、いまだ宇宙開発は経済的に豊かで、高度なテクノロジーを有する国家が独占する「植民地主義」がはびこっているのとナフームは訴える。社会に大きな影響を与える宇宙開発において、文化的な多様性を生む議論を起こすことはできないか。その議論につながる想像力を育むことが、現在の地球上の社会問題を解決する上でも重要だと考えているのだ。
 そこで、ナフームはこう問いかける。「宇宙は誰のものなのか?」と。それから彼は、あるときベルリンで出会ったシリア難民の少女について語り始めた。KOSMICAでは活動の一環として、各国の難民・移民の人々が住むシェルターやキャンプを訪れ、子どもたちと共に「地球を出て、宇宙に行く」というミッションを考えるワークショップなどを行っている。「この地球上のどこにも居場所がないと感じている人々に、宇宙という視点が加わることで、自らのいる空間の広がりを感じ、考えてもらう機会」なのだとナフームは語る。彼・彼女らは、宇宙はおろか、自分の国に帰ることも、他国を自由に旅することもできない。それでも、脳内で世界中を旅し、宇宙にだって飛び立つことはできる。そうしたナフームたちの呼びかけに呼応して、シリア出身の少女は自身を月になぞらえ、地球を見つめる物語をつくったのだという。
 彼女が描いた美しい物語を、「withコロナ」の世界に突入してしまった私たちに照らし合わせて考えてみたい。ウイルスは打ち勝つものではなく、そもそもずっと前から存在していたものだ。人間だけで世界はコントロールできないと知るいま、何を感じて生きることが真の豊かさなのか。何かを制御しようと躍起になるのではなく、誰かがやって来るのを待つかのごとく、風のにおいや音に意識を向けてじっと耳をすませる。世界の隅々に感覚をひらき、そっと目を閉じて体の奥から喚起されるイメージと戯れてみる。環境哲学者のティモシー・モートンはそうした行為を「アンビエントな詩学」と呼んだ[2]。ナフームが紡ぐ詩は、そうした世界を感受する力を喚起してくれるのだ。

[1] Okamuro, M. (2010). Beckett, Yeats, and noh:...but the clouds... as theatre of evocation. Samuel Beckett Today - Aujourd'hui, 21, 165-177

[2] ティモシー・モートン『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(翻訳:篠原雅武/以文社)

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塚田有那(つかだ・ありな)
編集者、キュレーター。世界のアートサイエンスを伝えるメディア「Bound Baw」編集長。一般社団法人Whole Universe代表理事。2010年、サイエンスと異分野をつなぐプロジェクト「SYNAPSE」を若手研究者と共に始動。16年より、JST/RISTEX「人と情報のエコシステム」のメディア戦略を担当。近著に『ART SCIENCE is. アートサイエンスが導く世界の変容』(ビー・エヌ・エヌ新社)、共著に『情報環世界 - 身体とAIの間であそぶガイドブック』(NTT出版)がある。大阪芸術大学アートサイエンス学科非常勤講師。
http://boundbaw.com/

撮影:佐藤駿

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