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できない理由

【覚書】

ビジョンも知識も経験も意欲もあるなら自分でやってみたらいいのにということは、ずーっとずーっとずーっと言われてきた。

それでも頑なに「自分でやる」ことを拒み続けてきたのはなんでだろうなと改めて考えてみた。

理由は2つ。
・嫌だから

たぶん、この嫌レベルが理解されない部分なんだと思う。
なんとなくとか、好き嫌いのレベルではなく、熱を出して寝込んで生活に支障が出るレベルだから嫌なのだ。
ひどい時は2、3日寝込む。

人と関わるというのは、物凄く消耗してしまう。厄介なのは、その場ではそれに自分が気付かないということ。
疲れない時ももちろんある。今回は疲れるパターンかもと気づいても、どれくらい疲れているのかわからないから、自宅に帰って倒れて意識を失う。
何度も言うけど、意識を失わないこともある。お昼寝で回復する時も、「あー楽しかった」で済む時もある。

今は子どもたちが成長したから、自分たちでご飯食べられるし、多少倒れてもなんとかなるけど、多分意識を失うほど消耗するのは、普通ではないと思う。
そしてそれを自覚してるから、人前にでるのがすごく怖い。
倒れて迷惑をかけるのではないか、無責任に逃げ出してしまうのではないか、そんなことも過ぎる。

つまり、人前に出ると自分の健康を維持できないレベルでの「嫌」なのだ。

・泣くから

人と話している時に、感情とは別次元で勝手に涙腺が緩む。笑ながら泣くのだ。
前職も、窓口でこれを頻発しはじめて業務に支障が出てきたから休職した。休んだので、頻度は減ったもののいまだに泣く。

歌っても泣く。今朝は翼をくださいを子どもたちと歌って泣いた。あと、手のひらを太陽にも泣いた。泣かないこともある。

目の前の人が突然泣き出して、驚いている相手を見て申し訳ないと思うんだけど、コントロールできないからさらに罪悪感が…という悪循環。

精神論では突破できない身体的な反応を持て余すので、結果、やらない。近づかない。ということになっているのだと思う。
それは、決定事項だとは思ってなくて、改善されるならチャレンジしてみたいとは思う。
改善するための努力は、今までもしてきたし、効果もあったと思う。だからこそ社会生活が、会社員生活が送れたんだと思っている。破綻したけど。

倒れたり泣いたりを厭わずに再チャレンジする時期も来ると思っていて、それはきっと子どもたちがもう少し大きくなってから。今は、ワンオペで私が倒れたら子どもたちに迷惑かけるので、今じゃないと思っている。ただそれだけのこと。


できない理由を探すのは好きじゃなくて、できないならどうしたらできる?って考えるタイプなんだけど、できない理由がわからないまま解決策だけ提示してもイマイチ理解してもらえないのなら、もう少し分解して伝えてみようと思った。

できない理由を並べるのは、能力のなさを露呈してるみたいでめっちゃカッコ悪いと思っているけど、できないことを伝えて助けてもらえるならば、そっちの方がより早く目的地に辿り着けると思うので、そっちを期待してみた。

最後までお読みいただきありがとうございます。プラクーチェの活動を知っていただく機会となったら嬉しいです。