藤本タツキ『ルックバック』についての覚え書き

「4年生で私より絵ウマイ奴がいるなんてっ
 絶っっ対に許せない!」

藤本タツキ『ルックバック』

※本記事は、2年ほど前、大学のゼミの課題レポートとして提出した内容をそのまま掲載したものになります。

片田舎の小学校の小さな教室の中で、自身の絵の才能を疑うことなく生きていた主人公・藤野は、自身より絵の上手い不登校児・京本との出会いによって、生まれて初めての挫折を味わう。京本の才能に打ちのめされ、一時は筆を折った藤野だったが、中学に進学した二人は意気投合し、共同で漫画制作を行うようになる。京本の美大進学を機に、二人が別々の道に進むことになった数年後、人気漫画家となった藤野のもとに飛び込んだある一報によって、この物語は劇的に加速していく。

人生において、何か「ただひとつ」を選び取るということは、同時に、それ以外の「全て」を投げ打つということでもある。
藤本タツキ『ルックバック』では、主人公・藤野が机に向かう後ろ背のショットの反復によって、彼女が求めた「ただひとつ」を手に入れるためだけに費やした膨大な時間の経過が描かれる。

勉強、空手、家族からの理解、友人と過ごす放課後。藤野は、絵を描き続けること以外の全てを投げ打った。彼女の生き方は苛烈で、奇特で、極端で、大抵の人間にとって耐え難く苦しい。誰もがきっと、何かを選び取ることと引き換えに、自らが投げ打ってきた無数の「If(もしも)」を思わずにはいられない。

物語の中盤で、藤野は、今まで自分が創造してきた虚構(フィクション)が、信じ難く理不尽な現実を前に「実弾」としてコミットすることはないという残酷な事実を突きつけられる。彼女にとって、それは計り知れないほどの絶望であった。
幻想としての「If(もしも)」を振り切り、ただひたすらに前だけを望む強さに駆動され続けてきた藤野は初めて、取り返しのつかない過去と、あり得たかもしれない未来の狭間で立ち尽くす。どれだけ絵を描いても、漫画を描いても、時間は戻らない。京本は生き返らない。では、私たちが想像することに、夢を描くことに、机に向かうことに、果たして何の意味があるというのだろう?
絶望の只中で打ちひしがれながらも、藤野はペンをとり、物語を紡ぐ。無力な彼女には“そう”することしか出来ないからだ。藤野の描いた四コマ漫画によって、不可逆なはずの時の流れは逆行し、あのとき届かなかったはずの声が届く。彼女たちの、あり得たかもしれない最良の 「If(もしも)」が紡がれる。それは陳腐でご都合主義な奇跡ではない。「虚構(フィクション) の力」を信じる無力なわれらの、切実な“祈り”として......。

『ルックバック』のラストカットで映し出されるのは、机に向かう藤野の後ろ背である。それは藤野と同じように、自身も「描き続ける」ことを選んだのだという、いち創作者としての作者の宣誓のようにも思える。物言わぬはずの後ろ背が、全身全霊で肯定するのだ。過去への未練も絶望も振り切って、机に向かうことを選び取ったその切実を。

藤本タツキ『ルックバック』は、掲載当初、ネット上を中心にかつてないほど大きな話題として取り扱われることとなった。
作者のネームバリューや、初出が Web 媒体での無料公開であったことなど様々な要因が挙げられるだろうが、とにかく一本の読み切り Web 漫画に寄せられる反響としては、まさに異例の熱狂ぶりであったと筆者は記憶している。そしていくつかの例外を除き、(ネット上で観測出来る範囲において) 本作へ寄せられる声のほとんどが肯定的なものであったように思う。
ここまで言及してきたように、藤本タツキ『ルックバック』は、優れた創作賛歌の物語である。漫画作品としての完成度の高さ・秀逸さは、筆者個人も、自身の趣味趣向を超越した部分で一定の評価に値する作品であると感じる。しかし、このテキストを書いている現時点において、筆者は『ルックバック』という作品を手放しで称揚することは出来ないということを最後に記しておかねばならない。
本作の初出である少年ジャンプ+の掲載日(2021年7月19日)や、作中に散りばめられたモチーフからも分かる通り、藤本タツキ『ルックバック』の終盤にかけての展開は、2019年7 月18日に京都府京都市伏見区で発生した「京都アニメーション放火殺人事件」を、あからさまに想起させる内容となっている。本作が発表された当時、ネット上に見られる読者の大半は、国内外問わず多くの人々に強い衝撃と悲しみを与えた「京アニ事件」を、明らかに本作を読み解く上での共通の“コード”として共有していた。コード化された事件の記憶は、本作の終盤に起こる悲劇的な展開に、ある種の心地良さを伴いながらオーバーラップし、否応なく読者のカタルシスを誘う。そしてこの漫画自体の持つカタルシスは、ネット上で共有された“コード”によって何倍にも強化され、増幅されていったように思う。作者からの「隠されたメッセージ」を暴くため行われた無邪気な謎解き大会が、本作へ向けられる熱狂の一端を担っていた事実は否定できないだろう。

実際の事件を下地にフィクションを創作する姿勢を非難しているのではない。問題は、本作が初出から約1年経ち、単行本への掲載も成された今現在まで、少年ジャンプ +公式及び藤本タツキから、本事件への言及・声明が一切出されていないことにある。あくまで直接的な言及を避けながらも、事件の文脈を暗に“匂わせる”かたちで拝借し、悲劇的でうつくしい“物語”の一部として扱うその手つきは、極めて不誠実且つ暴力的であると言わざるを得ない。例えこの作品に込められた作者の思いが、被害者及び遺族への鎮魂の念や祈りであろうと、その暴力性を軽視することは許されないだろう。
また、本作は統合失調症患者への偏見を助⻑しかねない表現が含まれているという一部読者からの指摘により、単行本収録の際に容疑者のセリフや犯行動機の修正がなされているが、統合失調症患者の表象の危うさに抗議の声をあげた読者に対し、ネット上では一連の編集部の対応を受けたファンによる激しいバッシングが行われていたことも忘れてはならない。

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