36年目の部品発見から考える安全への警鐘 日航機墜落事故
520人が犠牲となった日航機墜落事故から36年。記憶の風化が懸念されるなか、事故現場の近くで7月、機体の一部が新たに見つかったことが、JNNの取材でわかりました。36年目の部品発見の意味について、元日本航空機長や遺族への追加取材を交えて考えます。
鎮魂の山へ
36年前、奇跡的に4人の生存者が発見されたスゲノ沢。
毎年8月12日が巡ってくると、幾度となくテレビのニュースでその名を目にし、耳にした場所だった。前後二つに割れた機体の後部が山から滑り落ちて止まり、生存者発見とともに、多くの乗客乗員が命を落とした、日航機墜落事故の凄まじさを物語る空間だ。
私が訪れた今年7月17日、小さな沢では、輝く太陽の下で清らかな水が音をたてて、ひたすらに流れていた。
私はその日、御巣鷹の取材を初めて行う他社の記者たちと共に、日本航空職員に先導されて登山した。1985年8月12日に日航123便が激突した御巣鷹の尾根まで、登山口から30分ほどだった。
道すがら、亡くなった方々の名や年齢を木の板に刻んだ、いくつもの「銘標」があった。遺体の発見場所かそのそばに立てられていた。お墓ではないため、墓標ではなく日本航空では「銘標」と呼んでいるのだという。慣れない表現だが、「銘」という字には「記す」「刻み込む」、さらには「心にしっかり記憶する」との意味がある。犠牲者に会いに来た人々が、記された名を見つめながら捧げたのだろう。千羽鶴や、幼い子供用のおもちゃ等が供えられた「銘標」もあった。恐怖、絶望、無念、非業、憤怒。亡き人、そして残された人々のいくつもの思いがそこに刻み込まれているように思えた。
航空機の激突地点の少し下に、「昇魂の碑」が建つ。8月12日の命日に慰霊登山に赴いた人々が、この碑の傍らにある「安全の鐘」を鳴らして祈る姿を、ニュース映像などで記憶している人は多いことだろう。
その碑を見つめたあと、体を反転してみる。すると、ちょうど向かい側に、通称「U字溝」と呼ばれる山の稜線が少しくぼんだ部分が見える。事故機の機体はそのくぼみ辺りに衝突し、バランスを崩して上下を反転させながら、昇魂の碑の上方斜面に激突したと考えられている。事故調査の結果では、U字溝から激突地点に至るまで僅か数秒だった。その墜落速度がいかに壮絶なものだったか。現場に立ってみても、十分には想像力が及ばないと感じた。
激突した斜面に向かって左側の谷からは事故機の第3エンジンが、右のスゲノ沢がある側の谷からは第1、第2エンジンが発見されている。全長は、小中学校にある25mプールの3つ分ほどのジャンボジェット機。この斜面に実際に身を置くと、想像を絶するような巨大事故の凄まじさに押しつぶされそうだった。巨大事故が制御不能になった時の恐ろしさは、想像するだけでも、それまでテレビで見てきたものをはるかに超えていた。
昇魂の碑の付近は、36年が経ち、幾分幹が細い若い白樺などの木々が再生している。それでも、コックピットが激突したとみられる付近は、事故直後に激しく炎上した痕跡をとどめていて、いまも黒焦げになった木や株がある。下草もまばらだった。
先に立って案内していた広報担当者がこう話した。
「この辺りでは、地面をよく見るといまだに小さな飛行機の部品が見つかるんですよ。特に今日のような雨が降った後には。」
そのように言ったそばから、小さな破片を見つけて拾い、見せてくれた。それは、長さが2cmほどのプラスチック製と思われる白っぽく薄いかけらだった。素人目には航空機の部品かどうかは判別できないが、人工物であることは確かだった。担当者は、少し前にも座席のシートベルトのバックルらしき金属片を見つけたことがあると静かに言った。この話は、私の中の深いところに落ち、そのままそこに留まった。
「大きな部品が発見された」
取材から数日後、私は日本航空に部品の話を詳しく聞かせてほしいと依頼した。折り返しの電話で、担当者は、まさに私たちが山に入った7月17日、スゲノ沢から新たに123便の部品が発見されたらしいと教えてくれた。
後日、実物を見せてもらったところ、それは赤茶色の錆がついた金属の塊で、一見すると大きなネジか独楽(こま)のような形をしていた。直径約22cm、高さ約18cm。歯車の歯のような部分が上下に2列、規則正しく並んでいて、36年近く山に埋まっていたと思えないほど、ほぼ原型そのままだった。しかし、触らせてもらうと、土がぽろぽろと零れ落ちた。写真を撮影させてもらう際、逆さにしようと思い、断ったうえで、片手で持ち上げようとした。びくともしない。両手を使ってようやく持ち上がったのだが、重さは10kgあると言われた。スチール製だという。
発見したのは日本航空の職員だった。話を聞くと、7月17日の昼、36回目の命日を前に職員たちがスゲノ沢を整地していたところ、沢の岸辺の岩陰に、この部品が「本当に普通にあった」のを見つけたという。土に埋もれていたわけでもなく全体が露出していたため、すぐに事故機の一部ではないかと思った。一緒に作業していた整備系の職員に見せたところ、やはり事故機の部品だろうとのことだった。
発見時、近くで作業していた阿部淳さん(日本航空安全推進本部統括マネジャー)は、「これほど大きな部品が発見されるのは近年では稀であり、正直驚いた」と話した。
2019年10月の台風19号は日本各地に甚大な被害をもたらしたが、スゲノ沢でもこの台風により岸辺の斜面で土砂崩れが起き、倒れた木々は2年近くが経った今でも斜面にそのまま残っている。斜面の下には、この付近で命を落とした人々の銘標が設置されていたのだが、いくつかは土砂で流されてしまった。日本航空は、沢の付近の少し高い場所に新たに銘標を設置し、沢の整地を続けているところだった。
「部品は埋まっていて、恐らく2019年の土砂崩れで地表に現れたのだと思われる。そうでなければ、もっと前に発見されていたはずだ。36年という長い年月を経てこの部品が発見された事実から、事故の教訓を得ていかなければいけない」
と阿部さんは言った。
部品の正体は・・・
日本航空の調査の結果、発見された部品は、左右両主翼に2つずつ付いた4つのエンジンのうち、第1、または第2エンジンの「アングル・ギアボックス」のギアであることが判明した。
ギアとは歯車装置のことで、エンジン下部にはギアボックスという複数のギアの格納部分があり、これらのギアが回転することで、エンジン回転による力が発電機や油圧ポンプなどに伝わる。ギアがあるからこそ、航空機は電気が使用できるし、油圧ポンプを使って操縦も可能になるので、ギアは非常に重要な部品だ。ギアボックスには、「メイン・ギアボックス」と、それよりも少し小さい「アングル・ギアボックス」の2種類があり、発見された部品は小さい方のギアだった。
墜落前後のどこかの時点で、このギアはスゲノ沢付近まで飛ばされ、凄まじい衝撃をもって地中に埋まったのだろう。
日本航空では、事故の教訓として、実際に現地に行き、現物を見て、現場の人や体験者の話を聞くことで初めて物事の本質が理解できるという「現地現物現人」の「三現主義」を掲げている。これは、日本航空の安全アドバイザリーグループからの提言で、伝聞ではなく、自らの五感で感じたことを心に刻み、「安全の礎」にして日常業務につなげていくというものだ。
日本航空は、「現物に触れる」、まさにその一例として、このギアを羽田空港内にある自社の「安全啓発センター」に8月11日から展示している。センターでは、事故後に回収された123便の機体の一部や事故の資料などが展示されていて、日本航空では訪れる職員たちの安全意識教育に活用している。
「ギアは最後まで回転していた」
(インタビューに答える小林宏之氏)
元日本航空の機長で航空評論家の小林宏之さんは、事故当日のことを鮮明に記憶している。
「午後7時前にテレビで天気予報を見ていたら、123便の機影消失の速報が入った。当時ジャンボ機は四重の安全設備があって、ジャンボが墜落するとは思わなかったが、次々に重い報せが入ってきて、・・・もう言葉では言い表せない胸の痛さを感じた。事故の2日後には、国際線を飛ぶことになっており、筆舌に尽くしがたい思いで空港に向かったが、他の乗員たちには、『飛ぶ以上は、注意力や判断力に影響を生じさせないためにも、とにかくいつもと同じ気持ちで、1便1便、安全運航を守っていこう』と話して無事に飛んだ」
だが、36年たった今でも、「その時の気持ちは言葉にできない」と、小林さんは言葉を詰まらせた。
日本航空によると、発見されたギアは墜落原因に直接関係はないとみられる。
調査によると事故機は、相模湾上空をフライト中に後部の圧力隔壁が破損したことで垂直尾翼等が吹き飛んだ。4つのエンジンはすべて正常だったが、操縦に必要な4つの油圧系統がすべて失われてしまったため、操縦がほぼ不可能な状態で群馬県の御巣鷹の尾根上空に達した。機長たちは操縦ができない中、左右のエンジン出力を調節することで、機体を左右に旋回したり、機首をあげたりするなどして、最後まで機体をコントロールしようとしていたことが、コックピットの音声や機器のデータからわかっている。
小林さんも、「ジャンボは非常に大きくて慣性力も大きいため、エンジンの出力だけでパイロットの思い通りの方向に飛行するのは不可能に近かっただろう。油圧がなかったら、パイロットの思うような操縦はできない。」と解説した。
そして、「ギアボックスのギアは、エンジンの回転を発電機や油圧ポンプなどに伝える歯車であり、墜落直前までエンジンも発電機もほぼ正常だったとされているので、ギアも墜落直前まで正常に回転していた可能性が十分にある」と推測した。
墜落するまさにその瞬間までエンジン機能は生きており、したがって発見されたギアもエンジンから脱落する最後の一瞬まで回転し続けていた可能性が高いという。
最後に小林さんはこう結んだ。
「36年ぶりに事故機の部品がほぼ原型をとどめて発見され、事故を風化させてはいけないということを強く感じる。また、どんなことをしても安全運航を守るということの大切さを、いま一度再認識する必要があると思う」
風化への警鐘
9歳の息子・健さんを事故で亡くし、遺族の会である「8・12連絡会」の事務局長を務める美谷島邦子さんは、下記のようなコメントを寄せてくれた。
「部品は、36年の月日、現場に眠っていたというよりも、じっと待っていて、警鐘を鳴らすために、今年、顔を出したのでしょう。安全は目には見えないけれど、この部品が、目に見えるように語りかけている気がします。」
事故の風化は、単に人々や社会全体の記憶から消えていくことだけでなく、安全意識の薄れに直結するからこそ、可能な限り防ぐべきなのだ。日本航空でも、2018年10月、ロンドンで、乗務直前の副操縦士から基準値を大幅に超えるアルコールが検出され、地元警察に逮捕される事件が発生するなど、パイロットや客室乗務員等の飲酒トラブルが相次いで起き、安全意識に対する社の姿勢を問われた。パイロットによる飲酒問題は全日空でも2019年に起きている。
美谷島さんが使った「警鐘」とは、犠牲者の家族や近しい人たちがこの36年間、安全意識を維持し続ける難しさ、危うさを感じてきたからこそ出てきた言葉だろう。美谷島さんが、錆や土がついた部品を見て感じるのは感傷ではなく、まさに警鐘なのだ。
日本航空グループ全体で約3万5千人を数える職員のうち、事故当時も在籍していた職員は、現在約1000人。全体の3%以下にまで減っている。遺族たちも高齢となり、世代交代も進んでいる。今年の慰霊登山には、事故で亡くなった男性のひ孫にあたるという子供たちが参加していた。
美谷島さんが言うように、安全は目に見えない。安全は破られて初めて、重い現実として姿を現す。結局、目に見えない安全を守り続けるのは、人々の意識しかない。
今回発見されたギアのような機体の一部は、他にも山に埋もれている可能性がある。今後、そうした部品が発見される度に、「これは風化への警鐘なのだ」と受け止め続けることがとても大切に思える。
TBSテレビ報道局社会部 黒川朋子