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小さな死生学講座第4回

(しばらくお休みしていましたが、「小さな死生学講座」を再開させていただきます。第1回から第3回の内容を受けて、第4回から再開します。内容は、これまで発表していた論文等のダイジェスト版を掲載させていただきます。さらに詳しい内容を読んでみたいを思われた方は、元の論文をご覧くだされば幸いです。これまでの内容は、拙著『小さな死生学入門~小さな死・性・ユマニチュード~』(東信堂、2018年)に掲載されています。その他の論文についても、今後、ここにダイジェスト版を掲載していきたいと思います。元の論文は、オンライン上でお読みいただけるものもありますので、適時紹介させていただきます。「小さな死」ということを中心に「死生学」を展開していくという「小さな試み」ですが、ご理解いただきお読みくださればと願っております。各回の議論には重なるところも少なからずあると思いますが、ご寛容の程よろしくお願いいたします。)


二つの「小さな死」の出会い


(大林雅之「二つの「小さな死」―その邂逅の軌跡―」(拙著『小さな死生学入門~小さな死・性・ユマニチュード~』(東信堂、2018年)所収【ダイジェスト版】)

1)はじめに

 病む人の「生の終焉」について考えると、それが「死」ということを指しているのか、「死に行く過程」を指しているのか戸惑います。病む人が「生の終焉」をどう受け止めているかによって、その意味を理解する必要があります。また、「死の受容」についても議論があり、キューブラー=ロスの「五段階説」も一つのアプローチですが、多くの論争が存在しています。その中で、「小さな死」という概念が取り上げられており、近年では、カトリックのシスターであった渡辺和子の著作で知られています。この「小さな死」は、日常の経験を通じて死の意味を考える手がかりを与えるものとされています。ただし、欧米では「小さな死」はさまざまな意味で使われており、喪失感や子どもの死、性行為におけるオーガスムなどに関連づけられています。そのような中で、渡辺和子の「大きな死のリハーサル」などの「小さな死」と、フランスの特異な思想家とされるジョルジュ・バタイユの「オーガスム」という文脈で論じられた「小さな死」は、筆者には共通の意味が存在する可能性があると思いました。小論では、まず渡辺和子の「小さな死」の意味を探り、次にバタイユの「小さな死」が何を指すのか明らかにし、最後にこれらの「小さな死」に共通する意味を考察し、再び「小さな死」に込められた「死」の意味を考えたいと思います。

2)渡辺和子の「小さな死」

 渡辺和子の「小さな死」には3つの意味があり、それぞれ「小さな死①」、「小さな死②」、「小さな死③」と、筆者はしています。まず、「小さな死①」は「大きな死」のリハーサルとして捉えられ、生きながらにして「大きな死」をリハーサルのように経験することができるとされています。次に、「小さな死②」は自己中心的な欲望や感情を我慢し、制御することを指し、倫理的な意味合いを持っています。そして、「小さな死③」は新たな生を生む、多くの実りをもたらすという意味を持ち、宗教的な解釈を含んだ意味を表していると思います。これらの意味は相互に関連し、経験的な意味から倫理的な意味、そして宗教的な意味へとつながる連続的な理解を導こうとしていると考えられます。

「小さな死①」から「小さな死②」へは連続性を持ち、「小さな死③」がその続きであると考えられる。しかし、「小さな死③」はキリスト教の信仰を含む宗教的な意味を持つため、日常的な文脈では理解しにくいと考えられますが、渡辺は「小さな死①」から「小さな死③」までの連続性を追求しており、その連続線を支えるヒントはバタイユの「小さな死」にあるのではないかというのが筆者の議論における可能性です。そこで、次にバタイユの「小さな死」について議論してみます。

3)ジョルジュ・バタイユの「小さな死」

 バタイユによる「小さな死」への言及は限られているのですが、いくつかの要素が明らかになっています。まず、「小さな死」は「快楽の絶頂期」や「性欲の結果」と関連づけられています。それは「破滅的な浪費」や「喪失」を含み、個体の死につながるものとされています。バタイユは「小さな死」を「個体が個体を離脱して種に同化すること」と捉え、それは「自我の孤立性の否定」に結びついていると指摘しています。バタイユのエロティシズム論では、「小さな死」と「死の問題」が密接に結び付いており、陶酔感を超えた性の体験において「個別的な人間存在への否定」が生じるとされます(この点に関しては、酒井健の議論に多くを負っています。巻末の文献を参照してください。)これらの要素から、「小さな死」は「個体の死」や「自己の否定」と関連づけられ、エロティシズムの核心をなす要素として理解されます。

4)二つの「小さな死」の基底にあるもの

 バタイユの「小さな死」は「個別的人間存在への否定」に関連し、「小さな死」は「大きな死」とは異なるが、「個別的人間存在への否定」を含んでいます。渡辺の「小さな死」をバタイユの観点から見直すと、「小さな死①」は「大きな死」のリハーサルであり、「小さな死②」は「がまん」による「個別的人間存在への否定」となります。「小さな死③」は「私」の否定によって「大きな死」となり、「新たないのち」を求めていることになります。渡辺とバタイユの「小さな死」には「個別的人間存在への否定」という通底する共通点があり、近代個人主義への疑義と解放の示唆が存在していると考えられます。

5)最後に

 渡辺の「小さな死」から始まり、バタイユの「小さな死」に至り、両者における「小さな死」を超えて、「小さな死」ということへの理解が新たになったのではないかと思われます。二つの「小さな死」は「個別的人間存在への否定」と結びついており、近代個人主義への決別と解放を含んでいると言えるのではないでしょうか。渡辺とバタイユの「小さな死」の議論は、現在の「死」をめぐる議論や死生学の議論においても、新たな可能性を示唆していると考えられます。


文献
渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎、2012年)
渡辺和子『面倒だから、しよう』(幻冬舎、2013年)
ジョルジュ・バタイユ(酒井 健訳)『エロティシズム』(筑摩書房、2000年)
ジョルジュ・バタイユ(森本和夫訳)『エロスの涙』(筑摩書房、2001年)
ジョルジュ・バタイユ(山本功訳)『文学と悪』(筑摩書房、1998年)
酒井健『バタイユ入門』(筑摩書房、1996年)
大林雅之『小さな死生学入門~小さな死・性・ユマニチュード~』(東信堂、2018年)


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