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飛んで12月15日 すん

飛んで埼玉、はみたことがない。

ずっと何かを喋っているひとがいて、頭の回転が速いのか、よくずっと喋ってられるなーという感心とともにちょっと静かにしてくれないかな、という無関心な自分がよぎる。

いつからか騒がしいのが苦手である。騒がしくできるのだが、そうとうに気のおける仲間といるときに限られる。年に数回あれば良い。
子どもの頃はそれこそずっと喋っていて母に煩いとよく言われたものである。
母にはいまだに喋りすぎてしまう。しかもできるかぎりシニカルにできるかぎり笑えるように話す。私なりの親孝行エンターテイメントだ。

しかし、ずっと喋っているしかも他者の何かがどーだとか自分だったらあーだとかのことがいつのまにか聞いていると「すん」とするようになってしまった。無論序盤は態度には出さないが、継続されると態度も「すん」としてしまう。
その「すん」を卒業するための移動も兼ねていだがどうにもこうにもこれも習慣のようで前の土地に置いてくることはなかなかにむずかしいようである。

「すん」としないで聞いていようと一定時間はしていたと思うが自分の仕事が増えてきた途端「すん」が現れた。
ああまた君か。と言った具合だ。
よく喋る人は聞く人に向かって喋るので私が聞いてなくても問題ないし、聞いてないフリだと認識して喋っている。若いのに大したものである。

私の今までの聞いてない「すん」はすべての人にバレていたのかもしれない、し、そういう提示だったようにも思う。

「私、「すん」としますのでね。」

という、意思表示。
聞こえちゃってるかもしれないけど、悪いとも思わずに返事はしませんからね。という意思だったと思う。
「すん」が体に棲みつき始めた気がしたので置いてきたかったのだが、どうやらもうついていたようだ。隠れ家から出てきた。
じゃあもう付き合って行くしかないので、なるたけ「すん」しない、または、「すん」しても仕事で成果を出して「すん」の人という立ち位置を気づきあげる、または新たな新境地を開拓する、ということを2024年は目指そう。

なぜに、私が「すん」としてしまうことについてこんなにも対策を練らなければならないのか。
甚だ疑問である。
だれも私の「すん」を直せなんて言ってないのだ。
私が勝手によくない癖だと思っているのだ。
全く不毛な51行。故意の行。
恋の行。
故意も恋も行である。
違うか。(海原やすよ・ともよへの敬意)
なんの話だよ。

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