プロフィールver.1

高校生の時、つかこうへいさんの舞台を観た。

下着姿の主人公がヒロインに向かって、罵倒し、はたき倒し、愛を語った。
ヒロインは主人公を睨みつけた。
どんなに寂しかったのか、どんだけ我慢してきたのか、どれだけ主人公のことが好きだからこそ仕事で他の男に抱かれてきたのか。
感情を剥き出しにして、罵り合った。
好きも嫌いもぶつけ合いながら、ふたりは徐々に近付き、抱き合った。

このシーンを観て、僕は演劇をやるんだ、と決めた。

演劇をやるにしても何をやりたいのか?
つかこうへいさんのように、脚本や演出をしたかった。
自分の中にあるイメージを、物語を、感情を、舞台という形にしたかった。
とはいえ、一通りのことを出来るようになりたいとおもった。
俳優は勿論のこと、スタッフとして舞台監督、制作、照明、音響など殆どに手を出した。
脚本や演出をするにあたって、それぞれのポジションの気持ちや仕事の流れを知らないと迷惑をかけてしまうという気持ちもあった。

高校には演劇部がなかった。
文化祭で有志を集めて上演した。
大学では授業をサボって、サークルで演劇を作り続けた。
大学卒業時も、演劇で食えるようになりたいという思いから就職しなかった。
つかこうへいさんのように、人の人生を変えるような作品を作りたかった。
時代を作るようなことをしたかった。

しかし、時代の寵児にはなれなかった。
コミュニケーション能力が低かったのが理由の1つだと考えている。
勿論、素晴らしい作品が作れなかったからというのもある。
でもそれよりも、人の力を借りるのが苦手だった。
仲間とつくっていくものなのに、それが上手く出来なかった。
人を信じられなかった。

高校生の時、友人を10名いっぺんに失った。
掃除当番などを順繰りに回すために、クラスを何班かに分けていた。
その班で、「班ノート」という交換日記を書くことになった。
男子校の中学3年生に交換日記を提案する担任は勇気がある。
予想通り、クラスの大半からはブーイングがあがった。
しかし、僕は嫌ではなかった。
書いてみたかった。

とてもラッキーなことに、同じようにおもったのが、同じ班の6班メンバーだった。
僕らは毎日書いた。
書いたら先生に提出する。先生が赤ペンでコメントを書いてくれるのだ。
先生のコメントがその日に返ってこないこともあった。
日々、授業準備や授業、先生としての仕事をしている中で、何冊もの交換日記にコメントを書くことは難しい。

「せんせー、早くノート返してよ!」

その日に返ってこない時は、こう言って先生を困らせた。
書くことも他の人の文章を読むことも、先生を急かしつつコメントを貰うことも好きだった。

交換日記なのだから、自分に回ってくるのは週に1度か2週に1度。
それだけでは物足りなかった。
いつしかノートが2冊に増えた。3冊に増えた。
待つのが嫌!
その想いだけでそれぞれがノートを1冊以上持ち歩いた。

中身は多種多様だった。
小説やイラストの人もいたし、星や写真など好きなものについて兎に角細かく記した人もいた。ラジオやテレビの情報をまとめた人もいたし、授業内容についてコメントしていた人もいた。
それぞれの書く内容が面白かった。
読むのも、書くのも楽しかった。

班替えが行われても、6班ズとしての活動は続いた。
中高一貫校に通っていたのもプラスに働き、高校1年生になってもこの活動は続いた。
全員で116冊の大学ノートを書き切ったと記憶している。

高校1年生のある日、6班ズでの話し合いがあるから物理実験室に来るようにと言われた。
気軽な気持ちで行くと、みんなは既に集まっていた。
みんなが先に揃っているなんて珍しいなぁという感想を持った。
同時に何か重苦しい空気を感じ、手近な席に座った。

「今日集まってもらったのは、田澤に6班ズを辞めてもらうかを多数決で決める為です」

黒板の前に立った1人がこう発言した。
寝耳に水である。
驚いた僕は、周りを見渡した。
全員が僕を見ていた。

(あぁ、これはもう話し合いが済んでいて、決定事項なんだ…)

みんなが手を挙げているのは見なかった。
黒板に書かれた「正」の字はチラリと見ただけで、目を伏せた。
なんでこんな話になっているのか分からなかった。
ただ、このまま流されて終わるのは嫌だった。

「皆さんに僕が何をしてしまったのか分かっていません。失礼なことをしてしまったのでしょう。ごめんなさい。もう1度だけチャンスをくれませんか? 先生に申請する教室の件を僕にやらせてください。」

頼み込んで、なんとかチャンスを貰えた。
しかし、結果は散々だった。

「せんせー、6班ズで○○部屋を使いたいんだけど、使わせて〜! お、ね、が、い!💖」

いくら仲の良い先生だからと言って、こんな頼み方で教室を使わせてはくれない。
必死だったのは確かだ。
心の中は居場所を失うことへの恐怖でいっぱいだった。
それを表に出すことをせずに、いつもの軽い感じで先生に甘えた。

「田澤、お前のそういうところだよ。お前のそういうところが嫌だ」
「結果出せなかったんだから、辞めてもらうよ」

そういうところって何だよ?
意味が分からない。
自分が何を今までしでかしたのか、みんなを傷付けてしまったのか知りたかった。
チャンスを活かせなかった。
みんなの僕を見る視線を感じた。
呆れ、嫌悪、見下し、憐れみ、軽蔑。

僕は「そういうところ」を聞けなかった。
これを書いている今も何で嫌われたのかを知らない。
事実を受け入れるしかなかった。
覆せるようなものは何も持っていなかった。

きっと原因は1つではなかったのだろう。
澱が溜まるようにみんなの心を黒くしていったのだろう。
明確な答えを聞いていないので確かなことを言えない。
それでも自分なりに振り返るのであれば、

『自分が楽しければ良い。周りのことを考えずに行動してたから』

だとおもう。

高校1年生で友人を10人いっぺんに無くした後、高校2年生でつかこうへいさんの芝居と出会った。
高校3年生の時に、有志を集めて文化祭で演劇を上演した。
その演劇が、文化祭の特別賞を獲った。
仲間を集めて、楽しくやれた経験だ。

ただ、人のことが分からなくなった。
笑顔だったとしても、心の中では悪態をついているかもしれない。
頼み事を引き受けてくれたとしても、イヤイヤなのではないか?
口では良いことを言っていても、それは単なる気遣いで、本当の気持ちや評価をしていないのではないか?
自分は楽しいとおもっていても、周りを傷付けているのではないか?
自分よがりになっているのではないか?

考えれば考えるほど、人を信じることが出来なくなっていった。
周りの反応に過敏になった。
人を疑った。
心を開くことが苦手になり、内に籠った。
気持ちを伝えることが怖くなって、我慢を繰り返した。

不思議なことがある。
気持ちを伝えることが怖くなったのに、気持ちを表現する演劇や文章を止めようとおもわなかったのだ。

人のことが分からないからこそ、人のことを知りたいとおもった。
船で世界一周するピースボートに乗って、世界中の人を見ようとした。
心理学をいくつも学んで、人の心を考えた。想いを馳せた。

自分の気持ちを知ることに時間を費やした。
どうしたら気持ちを伝えられるのかを試行錯誤した。
周りのことにも配慮しつつ、自分も楽しめる方法を模索し続けた。

今、僕は演劇や文章で輝くような業績がある訳ではない。
深めた方が良い気持ちがある。
高めた方が良い技術がある。
内に籠らず、怖いからこそ外に表現した方が良い。

物語で何を語れるのか?
それは作品によって変わるだろう。

ただ、自分が怖いと感じてきたからこそ、我慢を繰り返してきたからこそ、表現を諦めないからこそ、語れることがあるのだとおもう。

語ることを続ける。

そのことによって、あなたの力になれることもあるかもしれない。
そのことによって、世界が広がっていくかもしれない。

そんなことに想いを馳せている。

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