脱管理宣言
管理、やめました。
管理というのはすなわち、何か或いは誰かに対して、「あるべき姿」を設定した上で、それを維持すべく、その何かの状態や誰かの意思に関わらず、手を加えたり目を光らせたりすることであって、言ってしまえば管理はハラスメントの始まりである。
ところがどっこい、現代社会における労働の大半は管理であり、管理無くして労働なし、管理こそが労働である、という信憑はあまねく共有されており、人材やら顧客やら品質やら勤怠やら在庫やら体調やら金銭やら、まあ管理のオンパレードで、「管理こそが仕事である」という考えのことを私は「カンリズム(管理主義)」と呼び、彼らはすなわち「カンリスト」である。
で私はと言えばその「カンリズム」と「カンリスト」にほとほと疲れてしまったのである。
ほとほと、と書いたのは生まれて初めてかもしれない。内モンゴル自治区の省都であるフフホトの砂漠が頭に浮かんだ。羊肉が食べたい。
管理という概念自体が暴力性を孕んでいるので、管理がハラスメントにつながるのはとても自然な流れと言える。何か(誰か)を思い通りにしたい、という管理欲求は人間の本能みたいに見なされているし、まさにその欲求によって人間はここまで進化を遂げてきたのかもしれないけど、逆に管理欲求が昂じすぎて、管理以外の仕事が疎かにされた結果、滅びる社会もあるのかもしれない。
管理管理管理管理、うるせえ。
管理とは真逆にあるはずの福祉も教育も看護も管理に毒されて、そこにいるヒトモノコトすべてが管理の網から逃れられない。
誠に憂慮すべき事態ではないか。
そんなわけで、私は一切の管理を放棄することをここに宣言する。
自らの内に芽生えたハラスメントの萌芽を、きちんと摘み取る。そもそも「あるべき姿」自体怪しいものじゃないか。
そういえば私の奏でる音を「出まかせ」と称賛してくれた音楽家がいた。これはとりもなおさず、私が自身の奏でた音に対する「管理不行き届き」の証左に他ならない。
神よ、天にまします父よ、
私たちに変えられないものを受け入れる心の平穏を与えて下さい。変えることのできるものを変える勇気を与えて下さい。そして、変えることのできるものとできないものを見分ける賢さを与えて下さい。われらの主、イエス・キリスト。アーメン。
超越的な「管理者」を設定するのも、私は拒否する。カンリストは、「管理すること」だけでなく、「管理されること」も求める。私はそのどちらも放棄したい。
管理を放棄した先にどんな楽園が、どんな地獄が待っているのかなんて知らない。我々は未来を管理できないし、そもそも管理なんて幻想で、管理できる対象なんてないのかもしれない。いや対象すらも怪しいもので、縁起でつながる非線形的世界に思いを馳せてばかりいる私には、管理の不可能性ばかりが目について困る。
管理しないでどうするのか。
勝手にするのである。
切った竹から染み出す液に、勝手に増えた粘菌のように。(タイトル画像)
私だけではない。誰もが勝手にするのである。
それで世界が壊れたら、それまでのこと。管理によって滅ぶより、全然マシじゃないか。
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