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「済ます」と「澄ます」

「済ます」ばかりが重視されて、「澄ます」が疎かにされている。

笑顔で「済ます」ことはあっても、顔を「澄ます」ことは少ないし、社交辞令や決まり文句で「済ます」ことは多いのに、言葉を「澄ます」ことなんてほぼない。

スマス。

金髪碧眼のスミスの兄弟みたいな、いたずらに回文「すます」。

済ます。

ほんとは「すまない」ことを、半ば無理やりエイヤと「済ます」。この豪華な地獄をサバイブするには「済ます」で済ます以外にない、と思われてる。どんなに「すまないこと」でも、いかにして「済ます」かにばかり頭を回し心を砕く。

でも済ませば、濁る。

金で済ませば金は濁り、顔で済ませば顔は濁り、言葉で済ませば言葉は濁る。済ました分、確実に濁る。無理の残滓が漂う。

だから「澄ます」。

耳以外だと、顔や汁は「澄まし」うるけれど、眼や顔や言葉を「澄ます」ことは基本ない。耳を「澄ます」を考えればわかるけれど、「澄ます」は「濁り」のもとをフィルターで漉し取る感じではないし、カビキラーや塩素系洗剤みたいな強い力で「濁り」を死滅させる、ということでもない。

たとえば沖縄の海は、地球が「澄ました」ものだ。

一時的に「濁り」があっても、フィルターで無理くり漉し取ったり、濁りの元を死滅させたりせずに、あくまでバランスと循環によって「澄ます」。「濁り」とはつまりバランスと循環を失った状態。

世界的にもとりわけややこしい日本社会では、「済ます」ことなしに生きるのは難しい。できれば「済ます」なしで済ましたいけれども、「済ます」なしでは「すまない」ことが多すぎる。

だからせめて私は、済ました分だけ、澄ます。

ありがとう。ごめんなさい。愛してる。大丈夫。笑顔。お金。セックス。それらで済ました結果生まれた「濁り」を、せめて認める。

そして、澄ます。

済ましていては仕事にならない仕事、澄まさないと仕事にならない仕事を、生業とする。それは竹であり、音楽であるのだけれど。

「済ます」たびにほつれる織り目を、「澄ます」ことで繕う。「済ます」たびにぷつりと切れる糸を、「澄ます」ことで継ぎ合わせる。

耳だけじゃなく、眼も鼻も舌も、いや常に総動員されている躰という総体も、そして言葉だって、澄ます。「澄んだ」と確認する方法なんてないけど、それでも「澄ます」。

「すみません、じゃすまねーんだよ!」
「すみません」

という論理破綻したやりとりがはしなくも露呈している通り、実はみんな、済ましても済ましても済まないことを日々実感していて、それでも済まさないと済まされない地獄に生きてる以上、仕方なく済まし済まされ、濁り続けていくのだろう。

でもバランスを欠き、循環をやめた「濁り」を放置しては、早晩潰れる。「大丈夫」では済まないし、「済ましません」という意思表示は「すみません」の言い間違いと取られるのがオチだ。

この「濁り」に満ちた世の中で、どちらにせよ「済まない」し「澄まない」ならば、せめて「済ます」より「澄ます」方に向いていたい。

そんなことを思いながら、今日も私は竹を割り、音を奏で、言葉を紡ぐ。

済ましては、竹も音も言葉も濁るので、

ただ、澄ます。

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