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「興味を持ってもらう」「世界にアピール」の雑さ

先月、世界竹会議に出展しに台湾に行ってたのだけど、そこには同じ日本からはほぼ唯一、高知で竹製品の販売をやってる「竹虎」という会社の名物社長が来てた。彼を日本の竹関係者で知らない人はおそらくいない。

彼は、高知にしか生えてない「虎斑竹(とらふだけ)」というまだらな竹で作ったよろいカブトを身にまとい、これまた虎斑竹で編んだ装飾を施した電気自動車に乗る、という、私から見ると完全に意味不明なパフォーマンスを日々行っていた。

「日本の竹文化、虎斑竹をアピールし、竹の可能性を実感しました。」


「この機会に世界50カ国の竹専門家や研究者、関係者の皆様に改めて日本の竹を紹介できたことを嬉しく思います。」


「竹トラッカーには高知県特産の虎斑竹(とらふだけ)の事を沢山の方に知って欲しいという想いを込め」


「世界竹会議での竹トラッカーの活躍は、竹の面白さや可能性、そして日本の竹文化を世界に広く発信する機会となりました。」


ということらしい。

作り手ではなくマーケッターでありセールスマンである彼は、販売という目的を達成するために話題を振り撒くことやその場でただただ目立つことを優先することが、合理的な選択であると考えているのだろう。

だが本当のところはどうか。

イベント初日に行われたレセプションパーティーでのこと。

世界中の竹関係者が一堂に会し、「竹饗宴」という竹尽くしのコース料理が振る舞われた。私も出展者として参加させてもらい、私の周りは台湾の竹工芸師の重鎮が居並び、和気藹々と談笑していた。

前菜がサーブされしばらくした頃、

だいぶ遅れて、竹虎の彼が、竹の鎧姿でカチャカチャと音を立てながら現れた。通訳とマネージャー(秘書?)を引き連れて。

その時の空気と参加者の表情が忘れられない。侮蔑こそないものの、明らかに呆れた、何か大事なものを蔑ろにされたような、そんな空気が漂い、そうした表情が見えた。特に拍手もなく苦笑に迎えられる状況に、私がむしろ耐え難さを感じた。

その後も、周りのことや食事などそっちのけで、大きな声を張り上げてYouTube用の動画撮影に精を出し、舞台に上がってポーズを取って写真撮影。もはや着ぐるみのゆるキャラのような振る舞いに、空いた口が塞がらない私。

会場での振る舞いもさることながら、そもそも竹の鎧兜を身にまとい竹の電気自動車を走らせる、というパフォーマンスにどこまでの意味があるのだろうか。


「日本の竹文化、虎斑竹をアピールし、竹の可能性を実感しました。」


→竹の兜と竹の電気自動車のどこが「日本の竹文化」なのか。そして、竹の兜と竹の電気自動車のどこに「竹の可能性」が感じられるのか。


「この機会に世界50カ国の竹専門家や研究者、関係者の皆様に改めて日本の竹を紹介できたことを嬉しく思います。」


→実質高知県にしか生えてない虎斑竹を「日本の竹」とくくるのはさすがに乱暴ではないのか。


「竹トラッカーには高知県特産の虎斑竹(とらふだけ)の事を沢山の方に知って欲しいという想いを込め」


→知ってもらえればそれでいいのか。「知ってもらい方」を間違えたらむしろその価値やイメージを下げることにならないか。誰でも個人で発信でき、様々な情報が溢れている昨今において、「ただ知ってもらうこと」にどこまでの意味があるのか。


「世界竹会議での竹トラッカーの活躍は、竹の面白さや可能性、そして日本の竹文化を世界に広く発信する機会となりました。」


→竹トラッカーのどこに「竹の面白さや可能性」が感じられるのか。「やたら編み」を「日本の竹文化」と呼ぶのはさすがに「日本の竹文化」を伝えてきてくれた先人たちに失礼ではないのか。

私は彼の人格を否定したいわけでも、彼の今までの竹細工業界への実績や功績を否定したいわけでもない。

ただ世界竹会議における彼の振る舞いとパフォーマンスが明らかに的外れであり、その場にいた数少ない日本人として批判をせずにはいられないだけだ。

そして拙いながらも「日本の竹」「日本の竹文化」を現場で実演入りで紹介していた我々のブースは完全無視であったという事実にも、彼の論理破綻は見て取れる。別に無視してくれて全然いいのだけど、言ってることとやってることの間で全く整合性が取れていない。

世代的に仕方がないのかもしれないが、彼の発信する動画の内容からは、「日本製の竹かごは良質」「海外製の竹かごは粗悪」という強い固定観念が見て取れる。セールストークとはいえ、見ていて非常に気分が悪い。日本だけでなく世界各国に優れた美しい竹かごがある。にも関わらず、売るためとはいえ、日本の竹かごのみが良質であるかのように言い募るのは、明らかなミスリードであり、それはむしろ排外主義、ヘイトに近い。

誰がその「粗悪な海外製の竹かご」を作らせて買っているのか。

「日本の良質な竹かご」を作っている業者は正当な対価を得られているのか。

そうした根本的、本質的な問題に踏み込まないまま、表層的、刹那的なアピールに終始するその態度は、今回の世界竹会議におけるパフォーマンスからも十分見て取れる。

一方通行のアピールやパフォーマンスから何かが生まれるとは、私には思えない。しかも日ごろ排外主義的な発信を行なっておいて、今回は友好的な態度を装うなど滑稽すぎる。

必要なのは、日々竹と向き合い手を動かす者どうしの、血の通った対話でありコミュニケーションだ。

そういう意味で、今回の台湾出展は私には本当に意味があった。私がたまたま中国語ができて意思の疎通がしやすかったこともあり、色んな疑問をぶつけることもできた。国こそ違えど、同じ素材と対峙し、同じように手を動かして来た者にしかわからない、深く有意義な対話ができた。

そして今回の出展を機に出会った台湾の青年と毎週オンラインでやりとりするようになった。彼は私から日本語を学び、私は彼から台湾語を学んでいる。そんな彼の口からもこんな声が聞かれた。

「今回の竹会議の会場で、私が彼(竹虎の社長)にブースの説明をしていた時、彼は全く私の方を見ず、ずっと撮影しているカメラの方ばかり見ていた。非常に冷たい人だと感じた。」

わざわざ手間と時間をかけて台湾まで出向いて、当地の竹関係者にも冷たい印象を持たれるなんて、何をしているのか全くわからない。当人ももはや何をしているのか分からなくなっているのだろう。

ただ興味を引くためだけの一過性のアピールばかりに精を出していては本人も心が荒むに違いない。実際、その目はずっとうつろで、全身から「帰りたい」という情報を発していた。

今や誰もが発信できる時代、誰が、誰に向けて、どんな内容を、どんな目的で、どのように、発信するのか。それらをなおざりにした発信ありきの「発信至上主義」に陥っていないか。気がつけば、発信自体が目的化していないか。

今回の彼の振る舞いを他山の石として、私も気を付けていきたい。

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