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「無料」は何を守るのか
みんな大好きな「無料」。
特にいつも「お客様」としてしか振る舞わない人たちにとってそれは、揺るぎない「正義」として肯定的に映る。
「無料」ならやります!
「無料」ならもらいます!
でもいざ「お客様」を離れてみると、「無料」はなかなかにあやしい。
モノやサービスを提供するために費用や労力がかかっている以上、何か対価をもらわない限り、循環の輪は断ち切られ、持続は不可能となる。その対価としてもっとも分かりやすく便利で一般的なのがご存じおカネである。
その分かりやすくて便利で一般的なおカネを、あえて介さずにモノやサービスを提供する行為を「無料」と呼ぶ。
あえて「あえて」と書いた。
おカネが分かりやすくて便利で一般的であるにも関わらず、それを介さないのである。
それは「意思」である、ように見える。つまり「おカネを介さない」「循環の輪を断ち切る」という断固とした「意思」。
だが、どうやら違うのではないか、と思うようになった。
「循環の輪」とはまた別の「輪」があるのである。
それこそが「仲良しの輪」である。
おカネを介さないと「循環の輪」は断ち切られるが、一方でおカネを介すと「仲良しの輪」は断ち切られるのである。
「え、友達なのにおカネ取るの?」
「友達のよしみでやってくれない?」
こんなシーンは思いのほか多い。本来であれば、循環の輪を保持し、モノやサービスの提供を持続するためには、おカネを介するのが賢明に思えるにも関わらず、おカネの活用を忌避する。
そのようにおカネの活用を忌避するのは「循環の輪を断ち切るため」では決してない。そこにそんな意思はない。むしろおカネを使うことで断ち切られる可能性の高い「仲良しの輪を保持するため」にこそ、おカネを避けて通るのである。
ではなぜ、おカネは「仲良しの輪」を断ち切るのか。なぜおカネを介さない「無料」が「仲良しの輪」を守ることになるのか。
正直私には分からない。
だが推測することはできる。
その補助線となるのが、そうした「仲良しの輪」を重視する人たちの使いたがる言葉である。
「現代の結」「助け合い」「互助の精神」「お互い様」などなど、ふんわりとしたワードを彼らは好んで使い、おカネの出現前の世界にノスタルジックな憧憬を抱く傾向が強い。
おカネが、現代のように分かりやすくて便利で一般的になる前は、そりゃおカネなしで循環していたに違いない。でなければ社会は滅んでいたはずだ。
そしてかつてはおカネを介さなくても、食えた。なぜなら農民が圧倒的多数で、食物を自給するのがデフォルトであったから、おカネがなくても、生き延びることができた。
翻って今はどうだろう。
「仲良しの輪」のみで、食えるだろうか。
どう考えても食えない。
もし食えるとしたら、それはどこか循環の外部からおカネが供給されているとしか考えられない。そして「仲良しの輪」は大抵そうした循環外のおカネの供給源を、全力で隠蔽する。「仲良しの輪」の保持は、その隠蔽が大前提となる。
ここまで考えて来ると、理解ができる。
つまり「仲良しの輪」には循環外のおカネの供給源がある。でないと全員が飢えて死ぬはずだ。だがその事実は彼らにとって不都合である。だからこそ、その存在をひた隠しにする。
おカネを介するやり取りはいわば、その隠蔽されたおカネの供給源に対する「冒涜」である。そんな失礼なことはできない。だから彼らはおカネを全力で忌避する。隠蔽されたおカネの供給源を守るため、それによって辛うじて保たれている「仲良しの輪」を死守するため、おカネを介さないという選択に固執する。
私には幸か不幸か、循環外のおカネの供給源がない。である以上、循環の輪を断ち切らないために、今のところ最も分かりやすく便利で一般的なおカネを介さないわけにはいかない。
それは「おカネを介せばそれでいい」ということではないし、「おカネ以外を介することを全否定する」ということでもない。
ただ自営開始から4年を経た現段階の強い実感として、「おカネを介して関係を深める」というのが私には最も賢明で合理的に思える。逆に、おカネを介さないと関係が深まらないばかりか、むしろ蟠りばかりが積もったり、思わぬ暴力に晒されたり、まるでいいことがない。
だから私はさしあたり、モノやサービスの提供に対する対価として、おカネを活用する。もちろん今後はどうなるか分からない。もっと分かりやすくて便利で一般的なものがでてきたら乗りかえる準備はあるし、「おカネ以後」を見越した動きも細々と始めている。
おカネは、下ネタに似ている。
何より大事なはずなのに、どこか汚いものとして忌避され、恥の感情とも複雑に結びつき、巧妙に言語化されないまま、暮らしや人生に絶大な影響を与え続ける。
大事なことは、どんな形であれ、フランクに話題にできた方がいい。話題にするのをやめたとき、それは静かに腐り、暴力化し、結果恐ろしい形で自分に返って来る。政治だって同じだ。
「無料」を全否定したいわけではない。
おカネを全肯定したいわけではない。
ただせめて、その存在を表舞台に引っ張り出しておかないと、むしろ隠蔽されたおカネに地獄に引きずり込まれる感じがあるので、私はあえておカネをもらうし、おカネを使う。
馴れ合いを断ち切れ
肝に銘じたい。
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