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「廃れる理由(新3K)」を放置する人たち

かつては当たり前にあった技術が、時代の変化によって急速に失われている。それは私が生業としている竹細工もそうだし、茅葺き屋根、土壁、手作業での稲作、馬耕、井戸掘り、繊維作り、和裁などなど、たくさんある。

そしてそれぞれの分野において、そうした「かつての技術」を引き継ぐ、もしくは復活させようという取り組みがあるが、その大半はうまく行ってるように見えない。

なぜか。

その理由は大きく分けて三つある。それを「新3K」と呼んでみる。かつての3Kと言えば「きつい」「汚い」「危険」の三つで、若い労働者が忌避する厳しい労働環境を指したが、状況は変わってきている。

新3Kとはつまり、

①きつい
②食えない
③かっこ悪い


この三つである。

はい、予感があるとは思うが、先述の「かつての技術」を引き継ぐ、もしくは復活させる取り組みに現在従事されてる方は、この先は読まない方がいいかもしれない。「舐めている」と不愉快になる可能性大なので、ここで引き返していただき、スマホゲームやYouTubeなどでお口直しをしていただくのがよいかと。

ひとまず、ひとつずつ見ていこう。

まず「きつい」。

「かつての技術」というのは、基本的に機械や器具を使わないため、そのほとんどの工程に身体を用いる。現代人の身体は、かつてに比べて明らかに弱くなっているため、「かつての技術」は大半の人にとって、フィジカル的に「きつい」。

それだけではなく、すでに代替技術が開発されている分野においては、「かつての技術」よりもはるかに少ない時間と労力で当該の目的を達成できるにも関わらず、ある意味「非効率的」で「コスパの悪い」方法に自身の労力と時間を使わなければならない。そういう意味において、メンタル的に「きつい」。

このダブルの「きつい」が明らかに重くのしかかっている。

二つ目は「食えない」。

よしんば先述の「きつい」をクリアできたとしても、もっと致命的な問題が待っている。

それこそが、「かつての技術」が廃れた最も大きな理由である「食えない」である。もう少し詳述すれば「食えない」によって人(特に若い人)が集まらなくなり、深刻な人材不足によって産業として成り立たなくなるのである。

かつては、「食うこと」は「稼ぐこと」と同義ではなかった。農家が大半の地域では、稼がなくても「食うこと」はできたし、丁稚奉公や住込み弟子のような形で、稼げなくとも「食うこと」はせめて保証してもらうような仕組みが機能していた。

でも今はどうだろう。

社会の単位が「家」から「個人」となった結果、共同体は解体され、個人の自立(孤立化)が進み、「稼ぐこと」と「食うこと」がほぼ同義となった。これは動かせない事実だ。

「いや私は稼がなくても食えている」

そんな人がいるのは知っている。だがそれはあくまで特殊な状況や環境(実家が太いとか、かつて働いた蓄えがあるとか)のおかげであって、その数は相当限られている。そうした希少な「稼がなくても食える人」のみを対象とした取り組みが持続可能だとはどうにも思えない。

そして三つ目は「カッコ悪い」。

先ほどの「きつい」が精神的&身体的なハードル、「食えない」が経済的ハードルとするならば、この「カッコ悪い」はいわば社会的ハードルとも言えるものだ。

「カッコ悪い」かどうか、というのはつまり「周りからどう見られるか」「一般的にどう評価されるか」という問題に他ならない。それが「カッコいい」とまで行かなくとも、「まとも」「まっとう」を目指すのすらも高望みなら、せめて「普通」「恥ずかしくない」程度でないと、人は寄りつかない。この「カッコ悪い」はとりわけ軽視されがちで、そんなことうっかり口にしようものなら、たちまち追い出されて塩を撒かれるレベルに逆上されることが必至だが、「カッコ悪い」をスルーしたまま人が集まるとは思えない。


どうだろうか。納得していただけただろうか。当事者の方に納得していただける自信は全くないが、気にせず進めよう。

つまりこういうことだ。

何か後世に残したい「かつての技術」があったとしたら、それが①きつくなくて、それで②食えて、それが③カッコ悪くない、そんな状況を作り出さないと、そもそも人が寄りつかないし、来てくれた人も容赦なく離れて行く。

だからといって、①楽で、②稼げて、③カッコいい、そんな仕事を求めたら、コンサルとかディレクターとか、実態も社会的意義もやりがいもまるでない、空疎な仕事に限りなく近づいていくだけだし、そもそもその手のアプローチで「かつての技術」を後世に残すことは不可能だ。

「そんな偉そうなことを言っているお前はどうしているのか」

そんな声が聞こえてきそうだ。

私も「かつての技術」である竹細工を生業にする者として、同じ課題に直面している。いまだに「これ」といった解を見出せてはいないが、「房総竹部」という活動を試行錯誤の中で5年続けてきて、「新3K」を打ち破るための道筋が少しずつだが見えてきた実感はある。その詳細はまた別の機会に書く。

「キツいです」

ー 「甘えるんじゃねえ」

「食えないです」

ー 「いいからがんばれ」

「カッコ悪いです」

ー 「舐めるんじゃねえ」

直接口には出してなくても、心でそんなことを思ってる時点で、そこに人は寄りつかない。私だって嫌だ。

「キツさ」と「食えなさ」と「カッコ悪さ」に耐えられる、稀有な人材を見つける旅を続けるのもいいだろうけど、私にはその「分の悪さ」に賭ける理由が見つからないし、学生やボランティアやシルバーを代わりに使い倒したところで、現役世代をスルーして持続可能な取り組みなど望めない。

「キツい」
「食えない」
「カッコ悪い」

これらとどう逃げずに向き合うか。

それが何より大事だと私は思う。

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