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「経験年数」の呪いを解く

何年やってるんですか?

私が仕事にしている数々のスキルについて、それは様々な楽器、中国語、竹細工であるが、しはしば私はこう尋ねられる。

これは何も私だけではあるまい。

「入社何年目」やら「結婚何年目」やら「当選何回」やら「〇〇歴何年」やら、質問される前に名刺がわりに紹介する人も多いし、何か「スキル」や「経歴」についての話になると、誰かしらが「経験年数」を尋ねる。私も無自覚に尋ねているかもしれない。

今までに何度も書いたことだが、現在私は「経験年数1年」の竹細工と、「経験年数1年半」の二胡を、教える仕事をしている。

世に言う「経験年数」とは、おそらく「学習+実践(仕事)」を継続して行った期間、くらいの意味だろう。

だが、おそらく誰の経験もそうだろうけど、「経験」と呼ぶほどではない期間や、「経験」と認識されにくい期間というのが割とあって、冒頭の質問を受けるたびに、私は答えに窮する。

それ聞いて何がわかるんですか?

こんな意地悪な逆質問で応酬することもあるが、例えばヴァイオリンの場合なら

「まぁ始めたのは3歳なんですけど…」

やっぱり!的なリアクションをあえて待たずに

「でも全然練習しなくて上手くならなくて、中学入ってやめて…」

このあたりから表情が曇るのをむしろ楽しみながら、

「また大学のオーケストラで再開して、すごく練習したんですけど…」

起死回生のやっぱり!をまた潰すように、

「その後10年以上全然弾いてなくて…」

このあたりからもう受け入れ可能な回答が返ってくることを半ば諦めた表情になってくるのを横目に、

「35歳くらいから一念発起して、毎日弾いてます。」

ここまで来るとむしろ、変な質問してごめんなさい的な感じで、むしろ質問者を恐縮させてしまう。こちらこそなんかごめんなさい。

かくいう私も、中国留学中に1年半だけ習った二胡と、別府の訓練校で39歳から1年間だけ習った竹細工を、恐る恐る教え始めた当初は、経験年数に不安を抱いていた。

その程度の経験年数で金を取るとは何事だ、というまだ聞こえていない声に怯えていた。

だが、それは杞憂であり、誤解だった。

ある重大な事実に気づいたのである。

「経験年数」は、実際に学んだ期間や仕事をした期間に関係なく、すべからく年齢と同じ期間である。

んなわけねーだろ阿呆。

履歴書にそう書いてみろ頓珍漢。

そんな声が聞こえてきそうだが、もう少しお付き合い頂きたい。

私はたしかに二胡を1年半しか習っていない。それ以前には、一度も触れたことがなかった。その期間は通常、経験年数にはカウントされない。

でもそれはおかしい。

二胡に実際に触れなくても、ヴァイオリンを弾くことで手の感覚が研ぎ澄まされ、中国語を学ぶことで中国文化へのパスを手に入れたことは、間違いなく二胡を弾く上で大きな影響を与えている。

もっと遡れば、10本の指をある程度思い通りに動かせるようになっていく過程や、色んな音声に触れて聴力を獲得していく過程だって、二胡を弾く上では死活的に大事なファクターだ。

きっとそれ以外にも様々な経験が、二胡を弾く際には動員されているはずだ。

では、1年半習った後、弾いていなかった期間はどうだろうか。

結論から言うと、これも経験年数にカウントしていい。

実際に二胡を弾いていなくても、二胡を学んだことで不可逆的な変化が起きた身体は、情報の受け取り方や活かし方が、二胡以前とは根本的に異なっている。

だから音楽を聴こうが、別の楽器を弾こうが、料理をしようが、子どもと遊ぼうが、すべては二胡以後の私が行なっている時点で、それは十分に「二胡の経験」であり、実際にそれは二胡の音色や技術に大きな影響を与える。

喩えるなら、「経験」は卵みたいなものだ

卵は、コロンと生まれてきて初めて、我々はその存在に気づく。

しかしその卵は、ある意味において、潜在的に生まれ落ちるずっと前から存在している。

そして卵は、孵る。

孵った後、卵は割れて消えたかに見える。

しかし卵は、生まれた個体の中に次の卵の元になるものを確かに宿している。

だから厳密に言うと、我々の「経験年数」は生誕前まで遡ることができるので、「年齢」よりも少しだけ長い。

え?困る?

もし私の言う通り「経験年数」が年齢とほぼイコールだとしたら、30年前にピアノを始めた人と、昨日始めた人、二人ともが同じ40歳の場合、「経験年数」はともに約40年となる。

何か不都合でも?

「いやいやとはいえ、習熟度や技術レベルを推し量る上での目安となる数字が必要でしょう?」

いやそんなもの別になくてもいい。

むしろそんな数字の情報、本人にとっても、相手にとっても要らん影響を与えることの方が多い。

「20年も経験してるのに、これだけしかできないなんて、私、才能ないのかしら?」
「たった2年の経験でそんなレベルに達するなんて、どんな練習したんですか?」

いやそういうの、心底どうでもいいから。

始めたのがいつであったかを問わず、継続しているか、途中で辞めたかを問わず、一度でもそれに触れたことがあれば、「経験年数」はすべからく「この世に存在した期間」である。

ということは「経験年数」は、熟練度や技術レベルを測る指標としては、ほぼ使い物にならない。

それでいいと思っている。

では、なぜいたずらに、巷では一定の機能を果たしている経験年数を無化するようなことを言い出すのか。

私は、経験について、多くの人とは異なる捉え方をしている。

まず、経験は、ある特定の分野やスキルに限定することはできない。

「ギター経験」とか「海外経験」とか、あたかも特定の分野やスキルに限定した経験が存在するかのように思いがちだが、経験は竹林のようなもので、地下茎を通して有機的につながっている。

だから、昨晩見上げた三日月も、今朝蹴飛ばした小石も、今晩食べた焼き鳥も、上記の意味において「ギター経験」と言っていい。ギターに触れてることだけを「ギター経験」と呼ぶなんて、視野狭窄も甚だしい。

そして、経験は、事後的にしか知覚できず、未来形や現在進行形で経験を語ることはできない。

「経験を積む」とか「経験のため」とか、まるで経験が事前に可知であるかのように語る人が多いが、経験はある日、経験と経験が有機的に繋がったとき、「あれは、経験だった」と過去形で知覚されるものだ。

だから、前もってどの経験がどの経験につながるかは、基本的に不可知である。つながるはずだった経験が繋がらないこともあれば、繋がらないはずの経験が繋がることもある。

ここまで来たら、もうお分かりだろうか。

私が「経験年数」はイコール年齢である、と書いたのは、①経験が特定の分野やスキルに限定できず、②経験が事後的にしか知覚できないからである。それは年齢が「◯歳になった」と過去形でしか語り得ないのと同型的であり、有機的につながった時間と空間と知覚の総体を経験と呼ぶ以上、ある期間のみを経験として剔出することは不可能だ、ということだ。

具体的な話をしよう。

私は現在、別府で一年間学んだ竹細工を26人に教えている。

巷で言う経験年数で言えば「たった一年」であり、「何様?」的な反応は容易に予想できる。

だがそうではない。

私の竹細工の経験は、年齢と同じで、40年と半年なのである。

私が産声を上げてすぐに(或いはその前から)開始した「握る」という動作は、竹細工には死活的に大切な経験だし、鈍足で辛酸を舐め続けた小中学時代の体育や運動会は、社会的弱者への共感の礎とも言える経験であるし、いつも手仕事に精を出していた母親と一緒に暮らした日々は、手仕事を“日常”と認識するためには不可欠な経験であったし、豆腐の移動販売での訪問営業や障害者福祉施設での支援の仕事は、竹仕事の魅力を伝える上で大きな経験だった。

だが上記の経験は、どれも「竹細工を目的とした」ものでは全然なく、あくまでたまたま事後的に結びついた「後付け」に過ぎない。

経験と認識されていない経験が、ほんとはもっともっとあるに違いない。


豊富な経験を誇るのもいい。

乏しい経験を謗るのもいい。


だが少なくとも私にとって経験は、不可知で、有機的で、分割不可能で、どこか無時間的なもので、私の存在と分かち難く結びついている。

そう思えない人も多いかもしれないけど、こんな“経験観”に救われる人もあるかもしれない。

この先、経験年数を尋ねられることがあったら、年齢を伝えてみてはいかがだろう。

その質問者の怪訝そうな顔も、いつか何かの経験と結びつくかもしれない。









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