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カネ出しゃ買えると思うなよ

これ作るのに、どのくらいかかるんですか?

自分で作った竹の買い物カゴをいつも携帯していると、色んな人にこう尋ねられる。

まず、「どのくらい」の意味がよくわからないので、

それは時間ですか?それともお金ですか?

と聞き返す。

大抵は「作るのにかかる時間」についての質問であることが多いが、それは実質「お金」の質問であることが多いから、こんな形の先手を打つ。

なぜ「時間」についての質問が実質「お金」についての質問であるかと言うと、「時間」についての質問は、遠回しに「値段」を探ってる場合が多いから。

これいくらですか?

と直球で尋ねるのは憚られるけど、いくらで買えるのかは知りたい。おそらくこんな感じだろう。

なんだかなぁ、と思う。

実は少々うんざりしている。

なぜか。

それはその裏に、ある暴力的な信憑を感じるからだ。それはつまり、

「作るのにかかる時間」を元に「価格」は算出され、その「価格」の「お金」を支払えば、作り手である“私”の意思とは無関係に、誰でもそれは買うことができる。

これである。

消費者様、ここに降臨。

でも残念ながら、そんな都合よくはいかない。ごめんね。

なぜなら、作り手は選択ができるから。

作り手の選択①「作るか否か」

まず作り手は、「作るか否か」の選択ができる。理由は問わない。「天気がいいから」という理由で作ってもいいし、「気が乗らないから」という理由で作らなくてもいい。「お金が欲しいから」という理由で作る人もいれば、「お金が欲しいから」という理由で逆に作らない人もいるだろう。

消費者様が、上記の信憑に至る前提として、まず「作り手は作るか否かを選べないはずである」、つまり「欲しい人がいたら作るしかない」と固く信じているフシがある。

アホじゃないか、と思う。

これほど豊富な選択肢がある時代に、あえて「モノを作る」という選択をしている人が大半だ。雁字搦めで呪いに満ちたシステムやしがらみから自由になろうと、モノ作りを始める人も多い。

そんな事情で「モノを作る」という選択をしている人が、「作るか否か」の選択ができないわけない。もしそんな前近代的な呪いとしがらみの中でモノ作りに従事させられるのなら、少なくとも私は普通に勤めに出る選択をする。

作り手の選択②「売るか否か」

諸々条件が整って、うまいこと気持ちが乗って、作り手がモノを「作る」という選択をしたからと言って、「やった!手に入る!」と安心してもらっちゃ困る。

「作った」という事実は、「“あなた”に売る」という行為とは、全く別だからである。

「“あなた”に売るか否か」の選択は、消費者様には大変申し上げにくいことだけど、作り手によって為される。

こんなことを言うと、消費者様からは

「この殿様商売が!」

などと謗られるだろうけど、

「やかましい!このバカ殿消費者が!」

とでも心の中で返しておけばよい。

消費者様が捨象する「関係」

じゃあ作り手の「作るか否か」と「売るか否か」の選択はどんな基準に基づいて行われるかというと、それは「作り手ごとに異なる」としか言えない。「カネさえくれれば何だって作る」という人もいれば、「一見さんお断り」という人もいるだろう。

だから私の話をする。

私が「作るか否か」「売るか否か」はひとえにその相手との「関係」による。

「関係」によっては、頼まれていないモノを勝手に作って、お代をもらわないこともあるだろうし、

「関係」によっては、2億詰まれても作らないかもしれない。なんだ2億って。

でもこういう話をすると必ず反論が来る。

とはいえ「関係」で飯は食えないでしょ…結局は「お金」がないと…


「縁故米」で腹を満たす

縁故米(えんこまい)という言葉をご存知だろうか。

私は東京生まれ東京育ちなので、転職して田舎のお米屋で働くまで、全く知らなかった。

縁故米とは、既存の流通を通さず、農家が直接無償で上げる米のことだ。

これはつまり、「お金」を媒介して流通するのが「商品としてのお米」であり、「関係」を媒介して贈与されるのが「縁故米」だということを意味する。

「縁故米」が強い地域では「商品としてのお米」は全然売れない。そして田舎では「お米は買ったことがない」という人が相当数いることを、私はずっと知らなかった。

とはいえ「関係」で飯は食えないでしょ…結局は「お金」がないと…

という反論は、都市生活という極めて限られた社会のみで通用するもので、田舎では実際に「関係」で飯を食っている人が多い。「関係」が腹を満たさないのは、「関係」をすべて「お金」に代えてしまったからでしかない。


「関係」だって人を殺す

じゃあ「関係作り」に精を出し、多くの人と「つながり」を持てば、それでハッピーハッピーかと言われたらそんな単純なわけない。

むしろ「お金」よりも「関係」の方が殺傷力が高いし、多くの人は「関係」の持つ呪縛やしがらみから自由になるために、その代用として「お金」を用いるようになったわけで、

やはり「関係」が大事だよ!

というメッセージは鈍く怪しく響く。他でもないその「関係」にいま現在苦しめられて死にそうなんですけど。

そして殊更に「関係」や「つながり」の重要性を強調するコンサル系の人は、むしろ露骨に「関係」を直接「換金」して飯を食ってる感じがして、彼らのいう「関係」というのはもはや「お金」と同義だったりするから薄気味悪い。そんな人とはなるべく「無関係」でいたい。


「お金」も「関係」も選ぶ

そんなわけで「お金」か「関係」か、という二者択一的な議論はほぼ無意味で、どちらかだけが大事だとか、どちらかだけあれば生きていけるとか、そんなシンプルな話では全然ない。

で、私はどうしているかというと、

選ぶこと」を死守しようとしている。

それは上述した「作るか否か」「売るか否か」だけでなく、「お金」と「関係」にまつわるなるべく多くのことを「選ぶ」ようにしている。

例を挙げよう。

私にとって、「お金」は均質ではない。

その「お金」をどのようにして手に入れたかによって、用途を変えている。

路上演奏で得た投げ銭は、すべからく顔の見える生きた金だから、顔の見える人に対して、なるべく鮮度が高いうちに使う。

企業のブラックボックスから得た給料は、呪いがこびりついてる可能性が高く、退蔵しておくと呪いに毒されるから、なるべく早く顔の見えない「商品」を買うのに使う。

こんな具合だ。

それはつまり「お金」や「関係」という言葉があるせいで十把一絡げに均質と見なされている部分を、丹念に腑分けする、ということかもしれない。

なるべく細分化して再定義して、自分の納得のいくカタチに再構築する。そしてなるべく「選べない」という隘路に迷い込まないように、注意深く進む。

それでも「選べない」ことは多い。

だから本当は選ばなくていいかもしれない「要らんこと」まで主体的に選ぶ。

動機を尋ねられても答えられないけれど、「選ぶ」という主体性だけは手放さない。

そんな風にとりあえずは生きていけたらと思っている。


いつもご覧いただきありがとうございます。私の好きなバスキング(路上演奏)のように、投げ銭感覚でサポートしていただけたらとても励みになります。