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“結果”としての「老後」を生きる

ふと思った。

“ある時”まで、食べてきたもの、見てきた景色、嗅いできた香り、聴いてきた音、触れてきたもの、発してきた言葉、会ってきた人、過ごしてきた時間、沸き起こってきた感情、犯してきた失敗、流してきた汗と涙、

それらの“結果”が、「老後」なのではないか。

その“ある時”を境に、“結果”としての「老後」が始まるのではないか。

そしてその“ある時”がいつ来るかは、人によってはそれこそ40代であったり、また人によっては80代であったり、全く異なるのではないか。

“結果”はあくまで“結果”だから、どうしたって変えることはできない。

もっと言えば、その“ある時”までのあれやこれやだって、そこに自由意志や選択があるなんて怪しいもので、だから私はその「老後」が自己責任だと言いたいわけでは決してない。断じてない。

“結果”としての「老後」を、ただネガティヴに捉えているわけでも全くない。

ただ、

どんな努力家であっても、どんな権力者であっても、どんな天才であっても、必ず“ある時”からは“結果”としての「老後」を生きなければならない、

そう考えた方が納得できる現象が多いのと、その“ある時”までを必死に生きることができるのではないか、と思っただけだ。

広い意味において、我々の生はすべからく“結果”に過ぎないのかもしれないけれど、それでもその“ある時”まではまだ、自身の行動や感情が“原因”となり得る余地が残っている気がしていて、その余地が失われてしまうのが“結果”としての「老後」なのではないか、と。

矍鑠とした老人ばかりが目に入るせいで、この社会はどこか老いを侮りがちで、老いの本質に迫ろうとする態度は誰をも喜ばせることがない。

老いはあくまで容赦なく迫り来るもので、未然にそれについて考えを巡らせるには不向きな対象なのかもしれない。

それでも私は考えたいのだ。

老いについて考えを巡らせることができないほどに、仮借なく老いが押し寄せてくるその前に。

ちなみに“結果”としての「老後」というのは、誰かに吹き込まれたわけでも、どこかで読んだわけでもない。ただ私がこれまで生きてきた実感と、これから生きていく予感から、ふっと生まれ出た想念にすぎない。根拠もなければ確信もない。検証のしようもない。

ただそう考えることで納得できることは確かに多い。

「老後に時間とお金に余裕ができたら〇〇がやりたい」

という割りかし一般的な欲望の先延ばしについても、“結果”としての「老後」という考え方を補助線にすると、その不可能性が理解できる。

つまり、その「老後に先延ばししてきた〇〇」をやらずにずっと生きてきて“ある時”を迎え、その結果としての「老後」があるのだとしたら、「老後」にその〇〇を「やれる」と考えるのはどうしたって無理がある。“ある時”まで「やってきたこと」であれば、その“結果”として「老後」に「やってしまうこと」になることは想像できるが、“ある時”まで「我慢してやってこなかったこと」となると、その“結果”としての「老後」においては、それが「やること」になる可能性は限りなくゼロに近いのではないか。

ようやくわかってきた。

“結果”としての「老後」においては、「やりたいこと」や「やること」は消え失せ、「何もしないこと」も含めた「やってしまうこと」で生が覆い尽くされてしまうのではないか。

ならば私が「一人称の老い」について考えるとき、私が“ある時”を迎え、それまでの“結果”としての「老後」を生きることになって、「やってしまうこと」は何か、という想像をすることが、妥当である気がしてきた。

わかって欲しい。

私は、単純な因果律で「老後自己責任論」をぶちあげたいわけでは決してない。何が原因で何が結果かなんて分かるわけない。

「やってしまうこと」を否定的にのみ捉えてるわけでも全くない。むしろそれこそが人間的であるとさえ思える。

そしてそもそも、それぞれの「老後」の、優劣や良し悪しや善悪を論じたいわけでも全然ない。そんなことできるわけない。

ただ、私は、よく生きたい。

そのためにはやはり、「精緻な諦め」がどうしたって必要で、そのひとつとして、“結果”としての「老後」について考えてみた。せめて比較的知性が働くうちに、考えられる限り考えたい。なるべくなら「変わらないこと」を無理に変えようとしたり、「変わり得ること」を変えることを諦めてしまったりせずに、

よく、生きられるように。

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