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「向いてない」の向こう側

向いてない

何を隠そう私はたいていのことに「向いてない」。

日本人、社会人、父親、大人、男、サラリーマン、ミュージシャン、職人、福祉職員、軒並み「向いてない」。他人から烙印を押されることもあれば、自身で結論に至ることもある。

振り返れば、私の「向いてないライフ」の幕開けは高校一年生だった。

バイト先だったすかいらーくの厨房でその烙印は押された。

ローストビーフを焼くと出る油を、シンクに垂れ流すのはおかしい、と最年少の私は社員に楯突いた。

そういや他にこんなこともあった。

本社から研修で来た社員が、真鯛の切り身を一切れずつバットに並べ塩胡椒を振り、一切れずつ裏返して、また塩胡椒を振っていた。

阿呆じゃないかと思った。

現場では全員が、まずバットに塩胡椒を振り、その上に切り身を乗せ、さらに塩胡椒を振っておしまいだ。いちいち一切れずつ裏返すなんてありえない。

なのに社員もバイトも全員放置なので、見かねた最年少の私が本社の社員にアドバイスをくれてやったところ、奴さんマニュアルを盾に口答えをしやがる。ふはは、本物の阿呆じゃ。

こんなことが続き、私はある日めでたくとある社員からありがたいお言葉をいただいた。

君は会社員に向いてない。

阿呆、お前らこそ何も考えんと言われるがままに仕事しやがって何を偉そうなこと言うてけつかんねんと思った私は若かった。

何も考えんと言われるがままに仕事をできる人こそが、会社員に「向いてる人」であるという基本的事実に気づかないまま、父親が筋金入りの会社員だった以上私にもできるはずだ、と信じて15年間会社員に挑戦したが、

結果としては、彼が正しかった。

確かに、私は会社員に向いてなかった。

早い段階でその事実を私に教えてくれた彼には感謝しかない。

わけない。

他者に対して「向いてない」などと断ずることができるのは、「(自分が)向いてる(と信じ込んでいる)人」だけである。

大抵の場合、まず最大公約数的な「向いてる人像」がある。そしてそれに自身が合致していることを根拠に、自らを「向いてる人」と認定している。

例えば先ほどの例で言うと、

彼なりの「会社員に向いてる人像」がまずある。

それは「ルールを守る」かもしれないし「秩序を乱さない」かもしれないし「打たれ強い」かもしれない。

それに合致する自分を見せる(場合によっては演じる)ことで、なんとか「会社員たる自分」を保つことができている。

そして「(ルールを守らない、秩序を乱す、打たれ弱い)向いてない人」を排除し「向いてる人」のみの均質な楽園を作れば、世界平和が訪れると信じて疑わない。

だが悲しむべき事実が2つある。

一つ目は「向いてる人像」の恐ろしいほどのつまらなさである。

「向いてない」と断ずる人に対して、試しに「ではどんな人が向いてるのですか?」と尋ねてみるといい。その答えにワクワクすることがあれば、それはほぼ奇跡だろう。大抵はクソつまらない、現状追認的な人物像が描かれるに違いない。

そして二つ目は、今の日本こそが「向いてない人」を排除し「向いてる人」のみを集めた結果としての地獄である、という事態である。

つい先日とある政党の「支持者」を名乗る人がある人に対して「政治家に向いてない」と発言して、その後様々な人を巻き込んだ興味深いやり取りがあった。

今の政治の世界には、「向いてる人」しか残ってない。

官僚の世界も、大企業も、肉体労働も、頭脳労働も、感情労働も、みんなそうだ。「向いてる人」のみが寄り集まって、「向いてる人」にしか分からない言葉で今日もあーだこーだと会話を交わしている。

結果どんなことになったか、という現状認識については個人差があるだろうから詳しくは書かないが、今の日本が豊かで未来に希望が持てて世界に胸を張れる、という人がいたら、その人は「日本人」に「向いてる人」なのかもしれないけど、残念ながら私はまるで向いてない。

とここまで、「向いてる」「向いてない」を慣用句的な使い方(「ふさわしい」とか「適任」というような意味)で見てきたが、

ふと立ち止まってみる。

「向いてる」なら、まず尋ねるべきは、

「何に」ではなく、

「どこを」ではないか?

君は会社員に向いてない

と言われたときに、私が返すべきだったのは

いやそう言うあなたはどこを向いてるんですか?

であったのではないか?

とある「向いてない」政治家が、国会でひとり問うていた。

どこを向いて政治をしている?

問われた居並ぶ「向いてる」政治家たちは、一様に下を向いていた。なるほど「向いてる」だけのことはある。

ようやく合点が行った。

今問うべきは「向いてる」「向いてない」ではない。

「どこを向いているか」だ。

向いてる方向によっては、所謂「向いてる人」であってもやらない方がいい場合もあるし、逆に「向いてない人」こそがやるべきこともある。

私は確かに会社員には「向いてない」。

だが新卒で入社した会社を退社したい旨を告げた時、当時私が尊敬してやまなかった先輩社員は、私に確かにこう言った。

向いてないからこそ、君が必要なんだよ

そうだった。だから私はその後も諦めてしまわずに会社員を続けてきたのだった。驚いた。今書きながら思い出した。

「向いてる人」ばかりの世界は、得てして「向いてる方向」も同じで、それが直接暴力や排除につながる可能性がとても高い。

そこに「向いてない人」がいれば、「向いてる方向」がてんでばらばらだから、いろんな目的地に辿り着くことができる。

だから自分を「向いてない」と卑下する暇があるなら、その時間を使って、自分は「どこを向いてるのか」について思いを巡らせてみた方がいい。

「向いてない」と断ずる人があれば、ではそう言う「向いてるあなた」はどこを向いてるのか、と問うてみればいい。

自分が「向いてる」と居丈高になるのも、自分が「向いてない」と悲愴的になるのも、もうやめにしたい。

他人が「向いてる」と卑屈になるのも、他人が「向いてない」と威圧的になるのも、もうやめにしたい。

自分に対して、そして他人に対して、「どこを向いてるのか」を問うてみたい。そしてその答えをまず受け容れたい。

そしたらようやっと、対話と共生の糸口が掴める、

そんな気がするから。



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