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ほんとはどれも「ほんとう」なのに「なかったこと」にしてるだけ説

2歳半のイトと今日も終日過ごす。

「おなかへった」

「じゃあ、かさりんご(近所のカフェ)に食べに行こうか」

「おうちでねたい」

「じゃあ、おうち帰ってねようか」

「としょかんいきたい」

「じゃあ、図書館行こうか」

内心「いやどーしたいのさ…」とツッコミを毎回入れつつ、とりあえず昼を食べに車を走らせる。

ハンドルを握りながらふと思う。

案外ほんとはどれも「ほんとう」なのに「なかったこと」にしてるだけなんじゃないか。

イトはコロコロと心変わりをしてるわけでも、思いつきで私を翻弄してるわけでもなくて、

①イトはお腹が減った。

②イトはうちで寝たい。

③イトは図書館に行きたい。

この3つ、いや言語化されていない気持ちも含めるとそれ以上だけど、少なくともこれら3つの気持ちはパラレルに併存していて、

ただイトは、身体が一つしかないとか、時間と空間が有限であるとか、相手を困惑させるんじゃないかという気遣いとか、そういう縛りに縛られないまま、どの気持ちも「なかったこと」にしてしまわずに、そのまま口にしただけなんじゃないか。

そういえば、こんなやりとりも多い。

「みかんたべたい」

「みかんどうぞ」

「みかんたべない」

「…」

これも困惑しがちなやりとりだけど、同じなんじゃないか。

つまり、

①イトはみかんを食べたい

②イトはみかんを食べない

この2つが矛盾なく併存している状態。論理的に理解しようとすると、アポリア扱いされて、ギリシアの哲学者の頭を悩ますことになってしまいそうだけど、私がリアリティーを感じるのは一見矛盾したように見える気持ちばかりだ。

行きたいけど行きたくない。
会いたいけど会いたくない。
知りたいけど知りたくない。

うん、途端にどっちつかずの人間臭さが滲み出てきて、愛おしい。

でも、大人になると、併存する気持ちをそのまま言葉にすると論理破綻を起こしたり、時空を超えなきゃいけなくなったり、相手に遠い目をさせたりしてしまうから、たとえ「ほんとう」でも「なかったこと」にする。

なかったこと」にし続けてるうちに、いつしか「ほんとう」は「ないもの」になってしまって、「ないもの」を口にする人を白眼視したり口撃したりするようになってしまう。

部活と私、どっちが大事なの?
仕事と家庭、どっちが大事なの?
やりがいとお金、どっちを取るの?

「ないもの」を呼び起こさせないための呪いのような二者択一、場合によっては一者択一という「選択」を迫られることも多いけど、きっとほんとは「多者択多」、いやそもそも選択なんて幻で、生起しては消えるだけの「無者択無」なのかもしれない。

イトが図書館で絵本を選んでいる。

私たちの「選択」もそんなものなのかもしれない。

イトが絵本をどっさり抱えてやってくる。

どの絵本も「なかったこと」にせずに読んでくれとせがむ。

成長や成熟の過程で「なかったこと」にされたあれやこれやにこそ、私の「ほんとう」が詰まっている気がする。

僕らはたいてい「選択しなかった方」にばかり拘泥しがちだけど、「選択肢にすら上らなかったほんとうのこと」が私を形作ってる気もする。

「なかったこと」にされてきた、

「ほんとう」のこと。

知りたいけど、

知りたくない。

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