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「趣味か仕事か」の呪いを解く〈生活〉

依頼主のいない仕事は、果たして仕事と呼べるだろうか。

まずは路上演奏の話をしよう。

私は毎週末のように駅前で勝手にバイオリンを弾いている。特に誰かに依頼されたわけでもなく、自分の好きな場所で好きな時間に弾いて、気が済んだら帰る。

「そりゃ趣味だろ」

ところがである。昨年4月以来の路上演奏は40回を超え、投げ銭の合計金額は17万円を超えた。

「金もらってるなら仕事だろ」

確かにお金はいただいている。だが誰からも頼まれてはいない。たまにリクエストに応えることもあるが、大半の投げ銭は何の依頼も要求も伴わないままボックスに入れられる。

だがまれに長時間弾いても一銭も入らないこともある。一銭も入らなければ趣味で、たとえ1円でも入れば仕事、そんな線引きは果たして妥当だろうか。

一緒に考えてほしい。私の路上演奏は趣味だろうか、仕事だろうか。

「お金をもらわないこと」が趣味であることの条件だとすると、お金をもらった時点でその行為は趣味ではない。

また「依頼主がいること」「事前に報酬がもらえることがわかっていること」が仕事であることの条件だとすれば、依頼主がおらず、日によっては一銭ももらえない行為は仕事とは言えない。

そもそも何か行為を行っている時点で、そこに報酬が発生するかどうかがわかっているという状況は、当たり前だろうか。

雇用された上での労働においては、時給にせよ日給にせよ報酬が約束されている。思えば「ギャラ」ももとを正せば「保証」という意味だ。

だがたとえば絵描きはどうだろうか。

たしかに肖像画など絵を描く前から報酬が決まっている仕事もあるだろう。だが大半の場合はおそらく絵を描くその時点では報酬は約束されていない。ゴッホは生前一枚しか絵が売れなかったというが、彼は生涯に渡って仕事を依頼されることがなかったようだ。

ではゴッホは趣味で絵を描いていたのだろうか。

違う気がする。

どうやら「趣味か仕事か」という問いの立て方に無理があるようだ。

少し違う例を挙げよう。

私はnote上でしこしこと愚にもつかない文章を垂れ流しているが、たまによい風が吹いて自画自賛したくなるよい作品が生まれることがある。

先日書いた以下の記事。

FBで見知らぬ人4人にシェアされ(知らない人にシェアされたの初めて)、Twitterではシェアやリツイートが相次ぎ、PVも1000に届きそうな勢いだ。

いや多くのフォロワーさんがいる人気noterさんに比べたら吹けば飛ぶほどのPVかもしれないが、いつもPVが250前後の私からすれば間違いなく快挙だ。グッジョブ私。ありがとうみんな。

上記の記事は、珍しくそれ用にヘッダーまで作り、意気込んで書いた記事だったので、それが結果として多くの人に読まれたのは素直に嬉しい。

そしてさらに驚いたことに、サポートを3人から合計700円頂いたのである。しかも日頃一切やりとりしてない3人から、である。

「意気込んで書いた記事が結果としてお金に結びついた」という事実からは、やもすると「意気込んで記事を書けばお金をもらえる」という仮説を導き出しそうになる。

だがことはそう簡単ではない。

昨年8月に作った以下の「新商品「毛ッション」」という曲。

この曲は今だにセルフベストでこれを超える曲は書けてない。作った直後は、ネット上で話題になって、みんなの歌に採用されて、子供らがみんな口ずさんで、流行語大賞やらグッドデザイン賞やらグラミー賞やらを総なめにして、取材が殺到したら竹修行の時間を削られて困るなぁとニヤついていた。

杞憂であった。

この広いnoteの大海において、いまだスキ0。

こんな名曲なのにみんなどうかしている。

いや恨み言が言いたいわけではなかった。パラレルワールドへの未練が強すぎて、現実に戻ってこれない。

そうだった、趣味か仕事かの話だった。

私がnoteで文章を書いたり曲を発表しているのは、趣味でも仕事でもない、〈生活〉である。ちなみにバスキング(路上演奏)も同じ意味での〈生活〉に他ならないし、ゴッホも〈生活〉として絵を描いていたのではないか。

「いやいや生活なわけない。生活ってのは炊事洗濯清掃入浴排泄、そういうもんだよ」

たしかにそうかもしれない。

だが私にとっては路上演奏もnoteも、炊事洗濯清掃入浴排泄と同種の〈生活〉なのである。

「ワーク・ライフ・バランス」という言葉を初めて聞いたとき、激しい違和感があった。

WORKはLIFEの一部ではないのか。

「いやいやLIFEにはいろんな意味があるでしょ」

なるほど。

だが私は「生命」と「人生」と「生活」が同じLIFEという言葉で表されるという事実に着目したい。

思えば日本でもつい数十年前まで「趣味」も「仕事」もなかった。あったのは〈生活〉、つまりLIFEだけだった。

だがいつしかライフスタイル(またLIFEか)や社会構造が変化して、「趣味」と「仕事」が独立して〈生活〉と張り合ったり〈生活〉を押し潰したりし始めて、〈生活〉の居場所はどんどん小さくなった。

私の息苦しさは、この「趣味」と「仕事」の隙間の小ささから来るものではなかろうか。

「趣味」でも「仕事」でもない、〈生活〉として音楽を演奏したり文章を書くことはできないものか。

「いやいやその生活費を稼ぐために仕事をしてるし、生活から一時的にでも解放されるために趣味に興じてるんだよ」

なるほど。生活を維持するための仕事、生活から逃れるための趣味。がんばって維持しながら、がんばって逃れる。生活ってなんなんだろう。

でもこう考えてみるとどうだろう。

仕事をしなくても持続可能で、趣味をしなくても楽しい、〈生活〉を打ち立てられないものか。

「お前は貴族か」

いや私は平民だ。平民こそ〈生活〉を愛す。

霞を食う仙人になれという絵空事を語っているのではない。

バスキングとnoteはまぎれもなく私の〈生活〉なのだ。

両方この上なく楽しいので「趣味」の入り込む余地はない。

あとは〈生活〉を持続可能にすれば、「仕事」も卒業だ。

ふはは、なんだあとちょっとじゃないか。もうひと工夫でなんとかなる気がしてきたぞ。

そうだ竹細工も〈生活〉にしてやろう。

誰かが勝手に投げ銭してくれるかもしれないし、野菜や米と交換してくれるかもしれない。

〈生活〉は手段でも目的でもない。「生命」も「人生」も含んだLIFEそのものだ。

夢物語と笑うがいい。

無趣味無職で、ニヤニヤ楽しく〈生活〉を生きてやる。

いつもご覧いただきありがとうございます。私の好きなバスキング(路上演奏)のように、投げ銭感覚でサポートしていただけたらとても励みになります。