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「驚いた顔」から分かること

最近気づいたこと。

私がある人を「“信用できる“と感じるかどうか」は、そのある人の顔を思い浮かべた時に「“驚いた顔”が思い浮かぶかどうか」とほぼイコールだ。

「信用できない」と感じる人の顔には大抵、得体のしれない「笑顔」が張り付いていて、「驚いた顔」が想像できない。

「驚く」ということは、「不意を突かれる」ということで、「不意を突かれる」ということは「隙がある」ということで、「隙がある」ということは「開けっぴろげ」ということで、どうやら私は「開けっぴろげ」な人を信用できると感じるらしい。

だが悲しいかな、この社会では「開けっぴろげ」は全く奨励されておらず、全く歓迎もされない。場合によっては、白眼視されたり目の敵にされたり爪弾きにされたり、まあ生きづらいことこの上ない。「開けっぴろげ」をやめて、隙を見せまいと閉じたまま、得体の知れない「笑顔」を終始浮かべる理由は、私にもよく分かる。

でも閉じてる相手を信用するなんて原理的に不可能だし、リスキーすぎる。閉じていては信用できるかの判断を下すための材料がそもそもないし、閉じたままで関係を築こうなんて都合が良すぎる。

そりゃあ誰だってあからさまに閉じてるなんて思われたくない。でも開くのも怖い。その間を取る形での「笑顔」なのだ。開くことを回避したまま、開いてるアピールのみに徹すると、人は「笑顔」になるらしい。開けっぴろげにニュートラルな真顔してると「閉じてる」「不機嫌」ととられかねないし、事実、お互いガードアゲアゲのニコニコ笑顔コミュニティ(お花畑)ではニュートラルな真顔は最大のNGらしく、私はいつもそこから弾き出される。

ニュートラルは適度に力の抜けた状態だから、感情も身体も身軽に動ける。でも「笑顔」は力んだ状態だから、感情も身体も咄嗟に動けない。不意を突かれた時の初動の遅れは致命的だ。共に生きる仲間として、危機が訪れたときの動きの遅さは、心許ないことこの上ない。

しかも「笑顔」は「笑顔」を、つまり「力み」は「力み」を強制する。

こんなにがんばってるのに、お前ばかり楽そうに楽しそうにあっけらかんとひょうひょうと開けっぴろげにしやがって、ズルい!

知るか。全員で力み死ぬつもりか。

そんなわけで、この社会においては希少種である、開けっぴろげに驚いた顔を見せてくれる、生きづらい人たちと共に、私は生きていきたいと思う。

「悲観は感情、楽観は意思」

うちの子らの通ってた保育園の園長の言葉。

絶望や諦めに飲み込まれない、しなやかで軽やかな精神と身体を。

「笑顔」を貼り付けて力んでる余裕なんて、私にはない。

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