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言わんこっちゃナイトメア

黒い雨のように降ってきた「半強制的自粛」によって、観光地は「来るな」と県外ナンバーに目を光らせ、「自粛要請」を「無視」した飲食店には「開くな」とクレームが入る。

SNSを眺めていても、個人なのに、まるで自らを「公」の代表であるかのように、「Stay Home」を声高に呼びかける人が散見される。

薄気味悪い。不気味すぎる。

誰かが何かを「守ろうとしている」ことは確かなようだけど、その守ろうとしている主体と対象について想像すると、視界がぼやける。焦点が定まらない。

自身の生命を守りたいだけならば、自身が「巣篭もり」に徹すればよいのであって、わざわざ他者に対してクレームを入れたり、Stay Homeを呼びかけたりする必要などないはずだ。

そんなことを考えていたところ、2歳のイトがいつも通りハサミを持ち出して「なんかきりたい」とやってきた。

はっとした。

彼らは「言わんこっちゃない」の先取りをしていたのだった。

「言わんこっちゃない」は単なる他責的態度ではない。

「言わんこっちゃない」は、自責を免れるための他責的態度であり、それは必ず強者から弱者に向かって吐き捨てられ、「責」は「責任」のそれではなく、「叱責」のそれであり、むしろ本当の責任の所在を曖昧にする方向に作用する。

観光地に来るな、飲食店開くな、家にいろ、それらの根底にあるのは、未来形の「言わんこっちゃない」である。

これは端的に言って、悪夢である。

ちなみに「言わんこっちゃナイトメア」という社会学用語を案出したのは、他でもない2分前の私である。我ながら正鵠を得たタームである。

「言わんこっちゃナイトメア」から醒める方法は、いくつもない。

まず「言わんこっちゃない」は「自責を免れるための他責」である以上、何かあるたびに「自責」に苛まれるような社会状況を変える必要がある。

この時点ですでに雲行きは怪しい。

さらに「強者から弱者に向かって」という「言わんこっちゃない」の一方向性にメスを入れるには、「弱者から強者に向かって」という打ち壊しや一揆のような動きでバランスを取るか、強者弱者という社会格差を是正するしかない。

もはや先行きには暗雲が立ち込めてきた。

そして「責任の所在を曖昧にする」のが「言わんこっちゃない」である以上、本源的な責任の所在を明確にすれば、安易に「言わんこっちゃない」などとは口にできなくなる。

ふむ、どうにも「言わんこっちゃナイトメア」から醒められる見通しが立たない。

なぜかと言えば、現状を打破したり、社会構造を変えたり、苦境を脱出するのに、最も大きなハードルとして立ちはだかるのは、他者による他責的「言わんこっちゃない」ではなく、自身による内面化された他責的「言わんこっちゃない」であるからである。

何かをしようとするたびに、

脳内に無数の「言わんこっちゃない」がエンドレスにリフレインする、悪夢的社会を我々は生きている。

私も今こうして「言わんこっちゃない」に抗すべく、頭を必死に働かせてみたものの、成果は「言わんこっちゃナイトメア」という用語を思いついてニヤニヤしている程度に過ぎない。

言わんこっちゃない。

うるさい。ほっとけ。

寝言のように繰り返す。

寝言だって大声で繰り返せば、その音量で誰か目を覚ますかもしれないし。







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