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結婚とは、聖域のすり合わせである

“結婚とは、聖域のすり合わせである。”
アリストテレス

すまない。のっけから引用のふりをした。アリストテレスはそんなこと言ってない。これは私の考えたテーゼである。

結婚生活は、極めて地味な聖域のすり合わせ作業に他ならない。どちらか一方の聖域ばかりを優先していたら結婚生活は早晩破綻する。それはつまり相手方の聖域が常に踏み躙られることを意味するからである。

どんなに価値観の近い二人であったとしても、聖域がピタリと一致するなどということはありえない。なぜなら聖域は生育環境によって大きく異なるからだ。そういう意味では、同じ生育環境で育った兄弟姉妹は、聖域に関して言えば、非常に近い可能性が高い。

さらに何より困ったことに、聖域は一定期間ひとつ屋根の下で寝食を共にしてみないと、そもそも自覚されないものである。である以上、事前にすり合わせることはほぼ不可能である(あえて「ほぼ」と書いたのは、離婚経験者同士の場合はその可能性は残されているから)。

そして、私の限られた実体験(結婚して17年)から言うと、聖域のすり合わせにおいて最も大きな割合を占めるのが「清濁の問題」である。

「清濁の問題」とは

「清濁の問題」というのはすなわち、「何を清潔と思い、何を不潔と思うか」である。

個人的な話をしよう。

私の実家は週に2回しか風呂に入らない家だった。なぜかは知らないが、そういう風になっていた。だから水土以外の曜日に風呂に入ることは基本なかったし、それがおかしいとも珍しいとも全く思っていなかった(夏はさすがに毎日のようにシャワーに入ったが)。

だが結婚する段になって、私は不安になってきた。どうやら世の中の人はもっと頻繁に風呂に入るらしい、ということを各種の情報をもとに掴んでいたのだろう。

「私は週に2回しか風呂に入らないけど、それでもいいですか」

今思えばなかなかに誠実な質問である。いざ結婚したとなれば虚飾など早晩剥がれ落ちる、という確信がなければこんな質問は繰り出せない。

「わかりました。私は絶対に毎日入ります」

その後、結婚してどうなったか。

私は嫁さんの影響で毎日風呂に入らないと気分が悪くなり、嫁さんは私の影響か毎日風呂に入らなくてもよくなった。ジャック・ラカンならこの現象を「欲望の交換」と説明してくれるかも知れないけれど、これこそが聖域、特に清濁という聖域のすり合わせである。

とはいえ、「聖域」という言葉のイメージがまだ掴みにくいかもしれないので、次に具体的な「場所」が聖域となっていた例を挙げよう。

食卓 vs 寝室

私の聖域は、食卓である。

食卓に食事に関係するもの以外が置かれているのに耐えられない。特にお金や図書館の本など、不特定多数の人に触れられたモノが食卓に置かれていると、ジンワリ強い不快感を感じる。

ところが嫁さんにとって、食卓は聖域ではない。彼女の聖域は、寝室である。

寝室には必ず、風呂に入って綺麗な寝巻きを着た状態で入らなければならない。外で着ていた服で布団に入るなどもってのほか、風呂に入ってない状態で布団に入るのすら耐えられない。

ところがである。

結婚して子どもができようものなら、食卓や寝室を聖域とし続けることは困難になる。なんでもかんでも食卓に置く子どもたち、帰りの車内で寝てしまってそのまま布団に寝かせることもしばしば、嫁さんは食卓にお金や図書館の本を平気で置き、私は風呂に入らずどんな格好でも気にせず布団に入った。

この目も当てられないほどに2人の聖域が踏み躙られている惨状をどう打開すればいいのだろうか。

清濁の非対称性

聖域のすり合わせに向けた対話の糸口として、清濁の非対称性について考えてみる。

清潔と不潔は対義的な概念だと思われがちだが、それは大きな間違いである。

清潔こだわりであり行為であるが、不潔無頓着であり状態である。

その大前提としてまずエントロピー増大の法則を押さえておく必要がある。

エントロピー増大の法則というのは簡単に言うと「物事は放っておくと乱雑・無秩序・複雑な方向に向かい、自発的に元に戻ることはない」ということだ。

つまり、清濁について考えた場合、「清→濁」という不可逆的な流れがある。放っておけば「きれい」は「汚い」に移行していくのである。

そしてその「清から濁へ」という不可逆的な流れに対して、こだわりを持って抵抗を試みる行為清潔であり、全く無頓着なまま流されていく状態不潔なのである。それは「放っておいたらきれいになった」「こだわりをもって汚くする」ということが起こり得ないことからも明らかだ。

清潔は誰にとっても心地よい

清と濁には、程度の差には還元できない根本的な差異があることを確認した。

まだ困ったことがある。

川に例えてみると分かる。

川は上流から下流に下るにつれて、水質は確実に「清→濁」の方向へと変化する。そしてその水域ごとに様々な生物が生息している。上流にはアユやヤマメが、下流にはフナやコイがいる。それは生態の違いに基づく生息域の違い、と捉えがちだ。

だが現実はもう少しややこしい。

下流に生息する生物は上流のような「清」の環境下でも生きられるが、上流に生息する生物は下流のような「濁」の環境下では一発で死ぬのである。

自身の生活に目を戻せば、私はどちらかと言えばフナやコイのような「濁」の環境を好む生き物であるが、ひょんなきっかけで生息環境が「清」となる、つまり部屋の掃除をするなどして「清潔な環境」に生きることになっても、死んだりしない。むしろそれはそれで心地よいと感じる。

では逆はどうか。

かつて私が働いてた米屋の社長は無類の綺麗好きだった。仕事柄、「掃除ができない人間は人間にあらず」という極端な考えの持ち主で、私からすると大掃除よりも丁寧な掃除を毎日従業員に時間外に行わせ、オープンして20年経った店舗は昨日完成したばかりであるかのようにピッカピカで、そんな彼の「清き世界」に「濁」が持ち込まれようものなら、彼は顔を真っ赤に紅潮させ、今にも憤死するほどに怒り狂った。

つまり「濁」に生息する人は「清」をむしろ心地良いと感じるが、「清」に生息する人は「濁」に強い憤りや不満、場合によっては生命の危機すら感じるのである。これこそが「清濁の非対称性」である。

生息域の違い

もうお分かりだろう。

上流に生息するアユと下流に生息するフナを同じ水槽で共存させる方法は一つしかない。「濁」ではなく、「清」なる水質を確保するのである。

魚ならこれで事足りるかも知れない。だが人間の場合、事はそう単純ではない。

つまり、「清の住人」も「濁の住人」もみんな「清き世界」ならば心地よいわけだから、「清き世界」さえ作れば問題は解決する、

わけないのである。

先述の潔癖社長の例を見ても分かる。

彼は無類の綺麗好きであったが、その「清」の領域や程度は、確実に彼の独裁によって決定されていた。つまりどこをどれだけ綺麗にすれば「清」なのかを一義的に決定することは不可能であり、そこには必ず恣意性が混ざり込む。「窓ガラスを拭く」という行為ひとつをとってみても、一つの指紋が残っているだけで「濁」認定する人もいるだろうし、私のように「向こう側が見えている」という事実のみで「清」認定する人もいる。

しかも人間社会の清濁の領域は、複雑に入り組んでいる。魚にとっての水といったシンプルな話ではない。それこそ窓ガラス、床、壁、天井といった構成要素的な分類から、リビング、食卓、トイレ、風呂場といった用途別の空間、更にはカビ、虫、埃、ぬめりなど「濁」の種類も多様を極め、それぞれに得意不得意や清濁の感覚が異なる。

「え、カビは耐えられないのに、虫はOKなわけ?」

「え、ゴキブリは殺すけど、蜘蛛は益虫だから殺さない?」

「炊飯器の中蓋って洗う人いるの?」

「洗濯機の洗濯槽を定期的に洗浄しないなんて信じられない」

という事態がしばしば出来するのが結婚生活であり、まさにそれこそが聖域のすり合わせが要請される所以である。共に生きられる「清」の環境を作ろうとしても、そもそも領域自体が無限に存在していて、しかも「清」の解釈がそれぞれに異なる以上、たとえ2人の間であっても全ての領域を「清」に寄せるなど、全く不可能な話である。

「きれい」という日本語

日本特有のややこしさもある。

日本語の「きれい」という言葉は、「清潔な」と「美しい」という、他の言語では全く異なる2つの概念を、さも当たり前のように持ち合わせている。

英語では「美しい」の意味の「きれい」は「beautiful」で、「清潔な」の意味の「きれい」は「clean」、中国語では「beautiful」が「漂亮piàoliang」で、「clean」が「干净gānjìng」、どちらの言語でも「美しい(きれい)」と「清潔な(きれい)」は全く別の単語だ。

ところが日本語では、当たり前に二つの異なる概念が、「きれい」に同居している。しかも、その事実に大半の日本語話者は無自覚である。無自覚に2つの概念がひとつの単語に共存している、ということは、2つの概念が相互に浸潤し合っている可能性が高い。

つまり日本語話者は「不潔だけど美しい」とか「醜いけど清潔」といった状況が想像しにくい。「きれい」という言葉のせいで、「美しさ」の中に「清潔さ」が、「清潔さ」の中に「美しさ」が、しれっと入り込んでいるのだ。

もう一度言う。

「清潔さ」の中に「美しさ」が入り込んでいる。

これにより「清」は、「美徳」という社会的価値となる。まさにこの事実にこそ、清濁という聖域のすり合わせが至難を極める理由が詰まっている。

「きれい」の対義語「みっともない」

すでに見たように「きれいか汚いか」という清濁の判断や評価は極めて個人的、恣意的なものだ。

「風呂上がりのキレイな身体を拭いたバスタオルは、汚れてないので再度洗濯せずに干すだけで再使用OK」

「箸の手元の部分はどちらにしろ口には触れないのであまりきっちり洗わない。だから口に入れないように」

これは実際うちの実家では当たり前にまかり通っていた日常である。どうだろうか。うむ、読者が引いている音が聞こえるが気にせず先へ進もう。

ご覧の通り、清濁の基準は、極めて個人的なものだ。

ところがそれと同時に、清濁は極めて社会的なものでもあるのだ。

そこを理解するためには「きれい」の対義語を考えてみるのが手っ取り早い。

「きれい」の対義語は「汚い」ではない。それは「きれい」の「清潔な」という意味のみの対義語でしかない。先に述べた「きれい」が持つ二つの異なる概念beautifulとcleanの両方の対義を兼ね備えつつ、しかもそこに社会的なニュアンスを色濃く残す言葉があるはずだ。

それこそが「みっともない」だ。

「みっともない」は見事に「美しい」の対義、「清潔な」の対義を兼ね備え、その上絶妙に、恥と結びついた社会性を強く帯びている。

この「きれい」の対義語である「みっともない」という言葉が、この社会にはいつもこだましていて、「みっともない」と指を指されるのをみな何よりも恐れている。

清と濁の平行線

ここまで考察を進めてくると、なぜ清濁という聖域のすり合わせがここまで困難を極めるか、という根本原因がはっきりしてくる。

ある清濁の領域がある。例えば靴。

私はしょっちゅう山に入るので、靴がピカピカであることはまずない。たいてい泥が付いた靴を履いている。

ただすでに見たように、私はこだわりを持った行為として靴に泥を付けているわけでは決してない。それはエントロピー増大法則に盾をつくことなく、あくまで無頓着な状態として、靴に泥が付いているわけで、当の本人はその事実を認識すらしていない。

だが一方、「靴は社会人の身だしなみ」と考えている人もいる。彼らにとっては「靴を清潔に保つこと」は「社会人として最低限のマナー」であり、それができていない人(私である)を見ると「みっともない」と感じるわけである。

「きたない」ではなく「みっともない」と。

アユがフナを見て「みっともない」なんて思うわけない。清濁の基準の違いはあくまでも生息域の違い、生態の違いといった差異に属するものである。どちらが上とか下とか、どちらが良いとか悪いとか、そういう話ではないはずだ。

だが日本語の持つ「きれい」の二重性(清潔を美とすること)によって、そこから外れたものを「みっともない」と糾弾してOKというゴーサインが出される。せめて個人的な好悪、快不快に留まっていれば、

「きたないからやめて」
「あ、気づかなかった、ごめん」

と対話も成立しようものだけれど、それを善悪、徳不徳の問題にまで押し上げられてしまうと、もはやそこには対話が成立する余地がない。

「みっともないからやめて」
「………(こりゃ何言っても無駄だな)」

こうなってしまうとすり合わせもへったくれもない。共存の道を諦める以外ない。

平行線の無限遠点を目指して

永遠に交わらないはずの平行線が交わる点、それが無限遠点である。

絶対に一致点が見出せないように見えても、無限遠点の存在を共に仮定することで、せめて対話の望みが生まれる。

清濁という聖域のすり合わせのために、私が行っている実践は、単純だ。

問題を、個人的な好悪、快不快まで差し戻し、その上で個人的な感情をお互いに吐露し合うのである。

対話の可能性を閉ざしているのは、問題の社会化である。

「私は嫌いです」

ならまだ対話できるけど

「みんな嫌ってるよ」

まで行くともう無理。向き合う気すら起きない。何か巨大な勢力が後ろにいるみたいで怖い。二人の共有スペースや共存の話をしているのに、顔の見えない「社会」を持ち出してくるのはそもそも卑怯だ。

だが悲しいかな、日本人は個人同士が好悪や快不快の感情を吐露し合う訓練を受けてない。場合によってはそうした対話に向けた歩み寄りすらも「みっともない」と軽蔑される可能性がある。

とはいえ、双方が歩み寄る以外に、共存共生の道はない。どんなにみっともなくても、どんなに恥ずかしくても「私は〇〇の汚さに耐えられない」「私は〇〇が不潔に思える」と言語化する。そしてそれはあくまで「生息域の違い」という差異のみに限定した話であって、そこで一々人格や人間性や社会性の話に持っていかない。

アユとフナが同じ水槽に住んでいる。

アユ:「この水だと私キツイかも…」
フナ:「え?水、なんかおかしい?」
アユ:「そうだよね…わかんないよね…」
フナ:「ごめん…」
アユ:「謝らないで。責めたいとかじゃない」
フナ:「俺は、わからないからさ…任せるよ」
アユ:「そう言ってもらえると助かる」
フナ:「でも俺がいたら…汚れるよ」
アユ:「最近はいい浄水フィルターあるし」
フナ:「そっか」
アユ:「うん」
フナ:「いいの?」
アユ:「うん、やっぱり一緒にいたいから」

こんな甘ずっぱい感じにはならない。知ってる。

人間はいつも社会的で、言葉ひとつひとつに勝手に社会が宿ったりして、面倒な生き物だ。

それでも、たとえしどろもどろでも、訥々とでも、あくまで「私」の快不快として、他でもない「あなた」に伝わるように、精一杯の言葉を尽くす。そうしてようやく、共に「清濁合わせ飲む」関係が生まれる。平行線に一瞬だけ「交わり」が生じる。

たかが清濁、されど清濁。

聖域のすり合わせはいつも多難で、対話の末に交わったかに感じられた平行線は結局いつも平行線のまま。

でも平行線は平行のままでも、平行線どうしの距離を縮めることなら、相手の声が届くところまで近づくことなら、日々のやりとりでなんとかなるかもしれない。平行線を捻じ曲げて無理に交わらせたら、むしろその後の距離は平行線よりも離れてしまうのかもしれない。

今日も爪を噛みながら、そんなことを考えている。

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