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シオンの声(4)

牧師館で過ごす夢のような日々に影が差すようになり、花は不安を募らせる。


それきりシオンのお母さんの調子が良くなることはなく、家に行っても誰も出てこないか、牧師さんがいるときは玄関で「ごめんね。シオンは誰とも話したくないって」と言うだけだった。
日曜礼拝でも、シオンは大人の礼拝にお母さんと一緒に出るようになり、子供礼拝にも教会学校にも来なくなってしまった。
シオンのいない教会学校はつまらなくて、花の足は礼拝から遠のいた。
それでもしばらくの間花は、放課後よく教会まで様子を見に行った。塀の外からピアノの音やシオンの歌声が聞こえないかと耳をすませてみるのだが、離れも牧師館も、しんと静まり返って人の気配が感じられなかった。

シオンと遊べなくなってぽっかり穴が開いたような花の心を埋めてくれたのは、転校生の沢井さんだった。
沢井さんは、着る物も言葉づかいも持ち物も、どこか品があり、でも気取ったところもなく誰にでも優しくて、みんなが友達になりたがった。その沢井さんがどういうわけか花のことを気に入ってくれ、休み時間を一緒に過ごしたり、校外学習で同じ班に誘ってくれたり、委員を二人でやろうと言ってくれたりして、だんだん仲良くなった。
学校に友だちがいなかったわけではないけれど、親友と呼べる存在は今までいなかった。花は生まれて初めて「友達に会いたくて学校に行く」という人の気持ちが理解できた。学校が「行かなければいけない」退屈な場所ではなく、花の世界の自然な一部になった。
すると今度はシオンと過ごした時間や、離れや牧師館の光景が、現実感を失って何だかうつくしい夢だったように思われてくるのだった。

花がまたシオンのお母さんに会ったのは、十二月の初めだった。
花の家の最寄駅から電車で二駅先に、駅に直結した新しくて大きなショッピングモールがある。沢井さんに誘われて秋から一緒に通い始めた学習塾は、そのモールの建物の一部で一番奥のはずれの方にあった。
その日、花は夜八時ごろ塾の授業が終わり、モールの中を突っ切るレンガ敷の道を沢井さんと二人で駅に向かって歩いていた。クリスマスが近いので駅前に大きなクリスマスツリーがあり、どのお店もクリスマスのデコレーションに工夫をこらし、ショーウィンドーのイルミネーションがきらきら点滅している。ちょうど帰宅ラッシュの時間帯で、駅前は仕事帰りの人が行き交ってにぎやかだった。
「――町へ行きたいんですけど」と、後ろのほうで誰かが言った。
 花の住んでいる町の名前だった。声に聞き覚えがある。
 振り返ると、シオンのお母さんが、中年の女の人に話しかけていた。
「さあ、ごめんなさい。わかりません。私この辺の人間じゃないので」
 聞かれた人は手を振って、歩き出した。
 シオンのお母さんは、今度はサラリーマンらしき男の人を呼び止め、「――町は、どこでしょうか?」とたずねている。その人も首を振り、通り過ぎていく。
お母さんは途方に暮れて周りを見回した。シオンやお父さんの姿は見えない。一人ぼっちのようだった。寒いのにコートも着ないで、普段着のニット一枚にジーンズという格好だ。おまけに電車に乗ってきたはずなのに近所まで行くようなつっかけサンダルをはいている。バッグも持っていない、手ぶらだ。
花にはシオンのお母さんの様子が異様に感じた。どこがと言われてもうまく説明できない。半泣きの顔はひきつって、小さな子供のようだ。おやつを出してくれ、ピアノを弾こうと誘ってくれたあのお母さんとは思えない。驚いた顔で二度見をしていく人もいる。けれど誰も話しかけようとはしない。
「知っているはずの場所で道に迷ったり」どんなときにお母さんは混乱するのかとたずねたとき、シオンはそう言った気がする。
たぶん今、混乱しているんだ。
花は迷った。声をかけたほうがいいのだろうとは思った。でも、いつもと全然違うシオンのお母さんが、ただ恐かった。
「知ってる人?」
 隣を歩いていた沢井さんは、花の視線の先を追って言った。
「――町って、うちの近くだよね? 一緒に帰ってあげようか?」
 優しい沢井さんは、今にもそちらへ向かって歩き出しそうになる。
「ううん、知らない人」花は言い、シオンのお母さんに気づかれないように沢井さんの手を引っ張って駅の改札のほうへ歩き始めた。
「あっちに交番があるから、大丈夫だよ。大人だもん」そうは言ったけれど、ホームへの階段を下りながら、花は何かに押しつぶされるような苦しい気持ちだった。

家の近くの駅で電車を降りると、改札口の前にシオンと牧師さんが立っているのが見えた。花はぎょっとして見つからないように改札をすり抜けようとしたが、改札をふさぐように目の前に立っているシオンの目に留まらないわけはなかった。
花を見ると、シオンは駆け寄ってきた。
「花ちゃん、うちのお母さん見なかった?」
花は何も言えずシオンの顔を見た。シオンは見たこともないような必死な形相をしている。
「お母さん、いなくなっちゃったんだ。スーパーに行くって言ったきり、どこさがしてもいないんだ。携帯も置いてっちゃって。もう四時間も」
花はあいまいに首を横に振った。シオンの顔が見られない。
とにかく知らないふりをしてその場を逃れたかった。沢井さんが気づかないようにと祈った。けれど、沢井さんは花の服の袖を引っ張って小声で話しかけてくる。
「花ちゃん、もしかしてあの人じゃない?」
花は何も言わなかったが、シオンが素早く反応した。
「あの人って?」
「さっき〇〇駅のショッピングモールに、迷ってる人がいたんです」
「どんな人? どんな服着てた?」
「青い長袖のニット着て、ジーンズはいて……ね?」
沢井さんは花に同意を求めたが、花はうつむいていた。
「花ちゃん?」詰問するようにシオンが言った。
「わからない」花はうつむいたまま小さい声で言った。
「その人、いまどこ?」シオンは沢井さんに向きなおる。花にはもう見向きもしなかった。
花はシオンたちと話している沢井さんをそこに残し、早足で家に向かって歩き出した。
歩きながら、様々な感情が次々と押し寄せてきて、どうしたらいいのかわからなくなった。
シオン。
どうしてこんな時だけ、目の前にあらわれるんだろう?
どうして、話しかけてくるんだろう?
ずっと私を避けてきたのに。遠ざけてきたのに。いつだって、お母さんのことばかり。悔しさと腹立たしさで、顔がかっと熱くなる。
でも「花ちゃん?」と言ったときの、怒ったようなシオンの顔が思い浮かぶと、足元の地面がくずれおちていくような気持ちになった。
もうだめだ。シオンは私を許さないだろう。私のしたことを知ったら、絶対に。一緒にいた大切な時間が、二度と思い出したくない記憶になってしまう。
それ以上何も考えたくなくて、花は走り出した。(つづく)

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