見出し画像

シオンの声(1)

天使の歌声をもつシオンに一目ぼれした花。けれど彼には、誰にも知られたくない秘密があった。

 
花が初めて教会に行ったのは、小学四年生のクリスマスのことだ。
お父さんの転勤で引っ越した町の、新しい家のそばにはキリスト教の教会があった。
ある日、郵便受けに一枚のチラシが入っていた。
「今年のクリスマスは、教会のキャンドル礼拝に参加されませんか?」という手書きの誘い文と一緒に教会の名前と地図、礼拝の時間がのっていて、手書きの文字とキャンドルを持った女の子のイラストが可愛いかった。
「これ、行ってみたい」
花はお母さんにねだった。
何度か夜に教会の前を通ったとき、庭にある大きなクリスマスツリーが色とりどりの電球で輝いているのを見かけた。あのきれいなツリーを、すぐそばで見てみたいと思った。


クリスマスイブは寒かった。
キャンドル礼拝は夜の七時からで、教会に着くともうたくさんの人が入口に並んでいた。教会も礼拝も初めてな花は、気おくれしてお母さんの手をぎゅっと握ったが、開いた扉の隙間からろうそくの灯りがチラチラと揺らめいているのを見ると、心がそちらに吸い寄せられるように感じた。


礼拝堂の中に入ると見るものすべてが珍しく、花の興味を引いた。高い天井や、祭壇の奥の木の十字架、両側の窓にはめこまれたステンドグラス。だが堂内の照明が落とされ、後ろの扉から手にろうそくを持った白いガウンの聖歌隊が入場してくると、花の目はその中の一人に釘づけになった。  檀上に上がり、十字架を境に左右に分かれてすわった聖歌隊は二十人くらいいたけれど、花の目は行ったのはただ一人だった。


向かって左側の一番前列、右端のいすの男の子。小学校高学年に見える。色がとても白いのと、大きな黒縁のメガネ、そして天然パーマの茶色っぽい髪の毛が特徴的だ。まっすぐに上げた顔は手に持ったろうそくに照らされて明るく輝いていた。  礼拝の間中、歌を聴いている時も、牧師さんのお説教の間も、お祈りの間も、花はただひたすらその子を見つめていた。


オルガンが、花にも聞き覚えのある明るい曲を奏で始めた。

すると、その男の子がすくっと立ち上がった。ほかの聖歌隊の人たちはすわったままだ。花は男の子が立つタイミングを間違えたのではないかと思った。だがその子はすっと息を吸うと、オルガンに合わせて、たった一人で歌い始めた。  

  あら野のはてに  

  夕日は落ちて   

  たえなるしらべ   

  天よりひびく……  

その子の歌声は、高く細く透き通って、ピンと張った糸のようだった。 「あらの」がどういうところだか花は知らない。でも花の心の窓にはその子の歌う風景がくっきりと浮かんできた。

荒々しい砂漠が地の果てまで広がり、そのむこう、空との境目には冷たく見えるほどまばゆく澄んだオレンジ色の太陽が沈もうとしている。花はなんだか悲しい気持ちになった。隣にすわっていたお母さんがバッグから取り出したタオルでそっと目をぬぐった。じっと見ている花に気づくと、ちょっと困ったように笑ってみせた。  

礼拝が終わって帰る人たちに、牧師さんがドアのところで一人ひとり声をかけていた。隣にはオルガンを弾いていたきれいな女の人が立ち、その横にはさっき独唱をした男の子が立って、かごに入れたお菓子を全員に配っていた。
男の子からお菓子をもらうとき、花はドキドキした。
男の子は花をまっすぐに見つめ、ニコッと笑って、透明なセロファンに包まれたクッキーを渡した。
「ありがとう」花は小さい声で言った。
メガネの奥の男の子の目は優しかった。クッキーを受け取ったとき、花は何かとても大切なもの、形のない、けれど体が震えるような美しいものを、一緒に手渡されたように感じた。

花は正月明けから、新しい学校に転入した。あの男の子もきっと同じ学校に違いないと思い、高学年の教室や図書室を探し回ったが見つからなかった。もう一度あの子と話したい。その思いが花のなかで日ましにふくらんでいった。
ある日の放課後、花は思い切って一人で教会まで出かけて行った。


クリスマス礼拝では人でごったがえしていたロビーは、今日はしんとしていた。礼拝堂の扉は開いていて、中には誰もいなかった。花はこわごわ足を踏み入れてみる。
陽光が差し込む昼間の礼拝堂は、クリスマスに見た夜の礼拝堂とは全く違って見えた。午後の低い日差しが床につくる大きな陽だまりに足をさらすと、じわじわと温かい。
静かだった。どこかから微かにピアノの音が聞こえている。もしかしてあの男の子が弾いているのだろうか? 
花は窓に近づいて外を見た。
目の前が庭になっていた。ピアノの音は庭のすみっこにある小さな小屋から聞こえてくるようだ。


背伸びをして窓に顔を近づけた途端、男の人の声が背後から「こんにちは」と言ったので、びっくりしておでこを窓にぶつけてしまった。
振り返ると、クリスマスの夜に見た牧師さんがすぐ後ろに立って、笑い出すのをこらえているような顔で花を見下ろしていた。
痛いのと恥ずかしいのとでほおに血が上るのを感じながら、花も消え入るような声で「こんにちは」と言った。
「もしかして、シオンのお友達かな?」牧師さんが言った。
「いいえ。クリスマスの時に会っただけです。でも、また会いたくて来ました」
あの子の名前はシオンていうんだ、と思いながら花は言った。
「私、南町小の四年生の、木ノ下花っていいます」
牧師さんはパチパチとまばたきをして笑った。
「そうかあ、シオンに会いに、わざわざ来てくれたんだね。ありがとう。ちょっと待っててね」
牧師さんは礼拝堂の後ろの扉から出て行った。
窓からのぞいていると、庭を横切って小屋の方へ行く牧師さんの後ろ姿が見えた。牧師さんが小屋のドアを開けると、中からシオンが出てきた。牧師さんが何か言いながらこちらを振り返り、シオンもこちらを見る。花は胸がドキドキした。
シオンがうなずき、枯れた芝を踏んでゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。長袖のオレンジ色の無地のパーカーに、下はひざ下丈のカーキ色のパンツをはいている。


やがて礼拝堂の扉からシオンが入ってきて、そこに立ち止まった。
「呼び出してごめんね。ピアノ弾いてたのに」
花が言うと、シオンは首を振った。
「ううん、別にいいんだ」
恥ずかしそうな表情で花から微妙に視線を外しているけれど、迷惑そうではなかったのでほっとした。
「シオン君ていうんだね。私、木ノ下花」
シオンはこくんとうなずいた。
「シオン君は何年生? 南町小?」
「うん。五年生だよ。でも学校にはあんまり行ってない」シオンは早口で言った。「……話って何?」
「このあいだ、クリスマス礼拝のとき、歌ってたでしょ。あれ、すごくよかった」
「そう?」シオンは目を細めて笑った。「なら、よかった」
「シオン君の声、きれいだね」シオン君という名前を発音するとき、なんだかとてもくすぐったく感じる。
「ありがとう。でも、ぼくの声は、預かり物だから」 

「預かり物?」 

「そう。期間限定。だからもうすぐ、神様に返すんだ」 

「もうすぐって、いつ?」 

「さあ」シオンは首をかしげた。 「正確な時期はわからない。神様が決める。でもそんなに先じゃないと思う」
「うちのお母さんね、泣いてたよ、あの歌を聞いて。私も悲しくなった。どうしてかな」 

「耳がいいんじゃないかな」  シオンはまっすぐに花を見て言った。 「え? 耳?」

シオンはうなずいた。 「あの歌、ほんとうは悲しい歌なんだ。耳がいいから、きっとそれがわかったんだよ」
「そうかな?」どういう意味かはよくわからなかったけれど、ほめられた気がしてとても嬉しかった。
「あのさ」話が途切れると、シオンは少しもじもじし、それから申し訳なさそうに「じゃあ、僕もう行くね。レッスンの途中だから」と言った。
「うん……あの、シオン君」
緑のスリッパをパタパタと言わせながら扉のところまで行っていたシオンは、立ち止まって振り返った。
「また、来てもいい?」
シオンのメガネの奥の目が、さっきの牧師さんそっくりにパチパチっとまばたきをした。
「いいよ」
また庭を横切って小屋に戻っていくシオンの後姿を、花は窓から眺めていた。シオンが小屋へ入ると、ピアノの音が止んだ。帰ろうと思って窓から離れたとき、シオンの歌う声が聞こえてきた。
それは奇妙な歌だった。何小節かの短いメロディをドレミで歌っている。音階練習のような単調な音の並びだ。けれどもその退屈な音のパターンが逆に、シオンの声を声そのものとして響かせていた。
「ドーレーミー、ミーレードー」
同じ音のパターンが少しずつ形を変えて繰り返される。手拍子やピアノ伴奏も時々交じる。
目を閉じて耳を傾けながら、シオンが何かを探しているようだと花は感じる。空中に散りばめられたたくさんの音の中から定められた音の正確な位置を声で探り当て、音の星座を見つけていく。いくつも、いくつも。
細く透き通るシオンの声を聞いていると、彼の心の空に輝いている音の星座が、花にも見えるような気がした。(つづく)

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?