シオンの声(5・終)
私は、ひどいことをした。花は、罪悪感に苛まれる。
次の日、花が重い足取りで学校へ行くと、沢井さんは屈託なくそばに来て「きのう、どうしたの? 黙って帰っちゃったから心配した」と言った。
シオンだけでなく、シオンのお母さんをわざと助けなかったことを知られて、沢井さんにも嫌われたに違いないとビクビクしていた花は、ちょっとだけホッとした。
「あそこですぐに交番に電話して、お母さん無事に見つかったみたいだったよ。よかったね」
「シオン、何か言ってた? 私のこと」
「あの男の子? ううん、何も。花ちゃんは人違いだと思ったんだから、気にすることないよ」沢井さんはそう言ってニコッと笑った。
ああ、沢井さんは人を疑うことを知らないんだ、ほんとにいい子なんだ。
花は思った。そしてもう別の話を始めている大好きな親友の無邪気な横顔を、ほんの少し憎んだ。
翌日から花は教会のそばに近寄らなくなった。本当は禁止されているが通学路を変え、教会の前を通らずに登下校した。シオンを学校で見かけることはまずなかったが、六年生の教室には近寄らなかったし、図書室にも行かなかった。
けれどもシオンを避ければ避けるほど、心の中は逆にシオンでいっぱいになった。一人になるとシオンのお母さんの泣きそうな表情や、「花ちゃん?」と言ったときの責めるようなシオンのまなざしが頭から離れない。真っ黒なかたまりを飲み込んだように、胸のあたりがいつも苦しかった。
一週間ほどたったある日、花が掃除当番で手洗い場にぞうきんを洗いに行くと、同じようにぞうきんを洗いに来ていた由香ちゃんに話しかけられた。由香ちゃんは教会学校に来ていた姉妹の、姉のほうだ。
「あっ花ちゃん、どうしたの? 最近教会来ないね」
「うん、ちょっと、忙しくて」
花はあいまいに答えた。
「知ってる? うちの教会、牧師先生変わるんだよ」
花はびっくりして、持っていたぞうきんを床に落としそうになった。
「変わるって? ほかの教会に行っちゃうの?」
「うん」
「じゃあ、引っ越しちゃうの?」
「そうだよ。来週の礼拝が最後だから花ちゃんも来なよ。シオン君にも会えなくなるよ」
由香ちゃんは気軽にそう言って掃除に戻っていったけれど、花はしばらくそこに立ち尽くしていた。
シオンが引っ越してしまう。
そんなことは想像したこともなかった。シオンはあの教会に、牧師館にいるのが当たり前だった。花がこの一年間、シオンに抱いてきたあらゆる思い。あこがれや親しみ、幸せや楽しさ、不安や期待、せつなさや悲しみ、苦しみや痛み。全部、シオンがそこにいたからこそ存在していた。シオンに会えるときも会えないときも、シオンについて考える事はもう花の生活の一部になっていた。
シオンがいなくなる。そう考えるだけで、息ができなくなるような気がした。
掃除当番が終わるのももどかしく、花はランドセルを背負ったまま教会へ行き、シオンの家の呼び鈴を押した。一度押してすぐ応答がなかったので、待てずにまた押した。インターホンから聞こえた「はい」という声はシオンのものだった。
「私……花」シオンからは顔は見えているはずだったが、花は言った。
しばらくして、ガチャリとドアが開き、すきまからシオンが顔を出した。
「何?」
シオンの顔を見たとたん、花は自分がどれだけ、シオンにまた会いたかったのかに気づいた。
「遠くへ行っちゃうの?」震える声で言った花の顔をしばらく見ていたシオンは、小声で「礼拝堂で待ってて」と言った。
シオンはすぐにやってきた。
「ごめんね、花ちゃん。ちょっとだけ。僕、すぐ帰らなくちゃ。お母さんを見ていなくちゃならないから」
シオンは少し目を伏せたままそう言った。
「引っ越しちゃうって、ほんと?」
シオンはうなずいた。
「どこへ行くの?」
「――市」
花の知らない名前だった。
「もう帰ってこないの?」
「僕には、わからない」小さな声だった。
「行ってほしくない」花は言った。
「え?」シオンはびっくりした顔で花をじっと見た。
「どこにも行かないで」
花は言いながら、そんなことは不可能なんだと知っていた。それから、今までどうしても言えなかった言葉を口にした。
「ごめんね。お母さんのこと助けなくて」
シオンは、少しの間、花を見ていた。それから、横に首を振った。
「怒ってる……よね? 私のこと」
シオンはまた、ゆっくりと首を振った。
「私……シオン君が急に会ってくれなくなったから、さびしかった。お母さんが病気だから仕方ないってわかってたけど、でもひどいって思った。だからあのとき、お母さんを助けなかった。シオン君に会えなくなったのはお母さんのせいだってどこかで思ってて、だからお母さんが困ってるのを黙って見てた……」
花はためらった。
「ほんとは、ちょっとだけ……ほんとに一瞬だけ、いい気味って、思った。だけどすぐ苦しくなった。自分が嫌いになって。ずっとずっと苦しくて、いつも何かに追いかけられてるみたいで」
後のほうは自分が恥ずかしくてシオンの顔が見られず、下を向いたまま言った。
そのときシオンが静かに「僕はね」と言った。
その声は少しも怒っていなかったので、花が顔を上げると、シオンは初めて会ったクリスマスの夜のように、まっすぐに花を見ていた。
「僕、この一週間、考えてた。ほんとはずっと、会いたかった。花ちゃんにすごく会いたかったのに、なんで会わないようにしてたんだろうって」
離れの方から、ふいにピアノの音がした。お母さんのピアノを聞くのは久しぶりだった。確かに「四季 舟歌」のメロディだったけれど、前のように自信に満ちた力強い音色ではなく、ひとつひとつ確かめながら、そっと鍵盤に触れているような弾き方だった。花は急に泣きそうになった。
「僕、気が付いたんだ」シオンは続けた。
「僕は花ちゃんに、混乱したお母さんを見せたくなかった。そういうところを見られたらお母さんがかわいそうだから。そう思ってた。……でもそうじゃなかった。僕が本当に見せたくなかったのは、隠したかったのは、お母さんじゃなくて、病気のお母さんを恥ずかしく思ってる自分だったんだ。お母さんを憎んだり、責めたり、神様を恨んだりしてる自分だった。――花ちゃんの前ではずっと、いろんなことを知っていて、優しくて、きれいな声の僕でいたかったんだ」
それからシオンは深く息をつき、礼拝堂の高い天井を仰ぐようにした。
「僕、花ちゃんが好きだよ」
とてもとても優しく言った。
「僕がすごく苦しいとき、花ちゃんは友達になってくれて、ずっとそばにいてくれた。とっても嬉しかった。いつも感謝してた。ありがとう」
花は言葉もなくうなずいた。
「僕、花ちゃんにお願いがあるんだ」シオンの声は少しだけ震えていた。「これからお母さんはどんどん病気がひどくなって、人が変わってしまうんだって。……だから、僕たちがいなくなっても、花ちゃんだけは、覚えていて。優しくてきれいなお母さんのこと。ピアノを弾いて、おいしい紅茶をいれて、いい匂いのするお母さんのこと。そしてもしいつかまた会えたら、そのとき僕に教えてほしいんだ。お母さんが本当はどんな人だったか。僕が思い出せなくなっちゃってたら、話してほしいんだ。お母さんがどんなに素敵な人だったか」
花はこくん、こくんと何度も、ただうなずいていた。本当に伝えたい思いがあるとき、言葉は出てこないのだと花は知った。一言でも何か言ったら、大切なものが壊れてしまいそうな気がした。
けれども今、礼拝堂でシオンと向かい合っているこの瞬間を、自分は一生、覚えていようと思った。
何があっても、忘れない。
夏の光、ケヤキの木、広間の階段。
銅版に書かれたアルファベット。真鍮の取っ手の感触。
サンルームの日陰、お母さんのピアノ、シオンの声。
完
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