_タクシードライバーは見た__60歳を越えたタクシー運転手の幸せな働き方_のコピー__86_

#タクシードライバーは見た「喜びの災難」後編

前回の続き
―――
目的地まではあと少し、時間にすると3分ほどのところまで来ていた。
――この後はどのポイントへ向かおうか
終わったも同然で次のことを考えながら交差点を右折していると
「あ、すみません」
急にお客様が声を掛けてきた。
はいと返事する間もなく続けて出てきたのは
「あの、吐きそうっす」
「え、あ、あ、」
まさかの出来事に言葉が詰まる。


急に吐くと言われ、すぐに停められない状況に放り込まれた中で慌てながら奮闘し、ようやく工事を抜けた。
この間、およそ5秒。
そして停まろうとすると「あ、やっぱ大丈夫です」
「吐かないんかいっ!」という言葉が出るほどツッコミ気質な性分は私にはなく、「あ、そうですか」と再びアクセルを踏んだ。
こんなところで改めて認識することではないが、ホント自分はあっさりした人間だな。
とは言え、心の中では「あっ!ぶね~」とアに力が入った「あぶねー」が大きく響いている。

とんだ災難に遭うところを回避し、少し安堵しながらアクセルを踏んだ。
時間も時間なので吐かれたらその時点で営業も強制終了となるうえ、掃除をしなければならない。
今まで車内で吐かれたことはあるが、全て具合が悪い赤ちゃんを病院連れていく母子をお乗せした時で、被害も小さいモノで済んだ。
あるときは、吐いた後の車内の臭いがアップルジュースだったことがあり、「あ、さっきアップルジュース飲んだのかな」なんて呑気なことを考えたときもあった。
一度も大打撃をくらったことはない。

停止しようとした場所から100メートルほど進み、あと1,2分で到着というところだが、出来れば少しでも縮めて早く安心したい思いが募る。
まだ少し不安が残っていた。
すると「あ、やっぱ吐きます」
マジか!!
そう思ってはいるが、なぜか「かしこまりました」という反応をする。
道路状況的に今度はすぐに停まれる場所にいて、すぐに道路脇に停めた。
男性は身体を起こし、今にも窓の外に吐きだそうとしている。
しかしすぐに吐くことは無く、身体を起こして外に吐くのも難しそうだと思い扉を開けるかと声を掛けた。
ただ、扉を開けるほんの数秒で吐き出さないかと怯えながら迷ってしまう。乗っているジャパンタクシーはの扉はスライド式で少々開くまで時間がかかる。
でも開けた方が中にも車体にも被害が及ばない。
1秒ほどの車内被害の危険を孕んだ時間があるが開けることにし、無事に開け切った。
とここで、「dぅrぉぉろろぅうおお」という声と共にびちゃびちゃと地面を打つ音が聞こえてきた。

今度こそ本当に危なかった。
扉を開けてすぐに、男性は外に吐きだした。しかもなかなか量を吐き出している。
それが見事に左サイドミラーに抜群の画角で写りこんでいた。
俯いた顔と、口を大きく開き大量にブツが出てくるのが見えた。
一通り吐き終えた後、自ら口に手を突っ込み誘い出してもいた。
全て吐き出してもらった方がこちらも安心する。
2リットルあるんじゃないかと思うほど吐いた後、仕事の電話ですと言わんばかりに「はい、大丈夫です」と男性は車内に身体を戻した。
そういえばこの男性は最初から冷静だった。

――うん、こんなお客様なら安心だな。
と何故かその男性の冷静さに頼りがいを感じるが、すぐに「いや、そうじゃないだろ」と危機一髪の状況を振り返った。
 今回は本当に危なかった。乗って来た時点で少し嫌な気はしたが、今回は予想外だった。
乗せた時点で分からなければ、法律上許されている泥酔客の乗車拒否も出来ない。
こればっかりは乗せてみないと分からないし、乗せてしまったら回避しずらいから困る。
やっぱり吐きそうな泥酔客は嫌だな。

信号待ちで今回の状況について振り返っていた中で、ふと違うことを思った。
「そういえば、今日一つもエピソードネタになることがなかったなぁ」
タクシーだからといって毎回何かしら起きる訳ではない。大したことないこともたまに無理やり利用するが無い場合は無い。
「ん、これで一つみつかったじゃん!」
2リットル近く吐かれる可能性があったというのに相変わらず呑気に、というより不覚にも喜ぶくらいに思ってしまった。
回避できたからそんな呑気なこと言えるんだとも思うが、吐かれたら吐かれたらでその臭いや固形物を見ながらまた何かしら考えていたかもしれない。

煩わしいことには遭遇したくない。
でも、遭ったら遭ったで有難い。

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