「競争」から脱却しよう
競争という言葉がいつから幅を利かせている言葉なのか知らない。
概念としては人間が木の棒で獲物を追い詰めていた時代からあるのだろうが、それがここまで幅を利かせているのはおそらく近代のことだろう。
競争と聞いて初めに思い浮かべるのはアダムスミスの「神の見えざる手」というオカルトだ。
いいご身分の人たちは「きさらぎ駅」はかけらも信じていない癖に「神の見えざる手」は無条件で正しいものだと信じている。現代の七不思議だ。
千年後には「神の見えざる手」は古代ギリシャの四元素みたいな扱いになっているんだろう。賭けてもいい。結果が出てるころには私もこれを読んでいる人もみんな死んでるだろうけど。
競争という言葉が私が嫌いな理由は、競争という言葉は切り捨てる言葉だからだろう。
競争という言葉には負けたものは切り捨てるという意味合いが含まれている。だからこそみんな負けるまいと必死になるのだ。
それ自体好きじゃない。
ただ私が好きじゃないというだけなら好みの問題で、生まれる時代を間違えたというだけだ
しかしここにきてそれではこの先上手く回っていかないだろうという予測が容易に成り立つ。
競争が成り立つのは「負けたらただでは済まない」からだ
今日の食べ物が手に入らないかもしれない。
大事な人がひどい目にあわされるかもしれない。
殺されてしまうかもしれない。
だから人は必死になる。すると競争は最大限の効果を発揮する。
しかし今の時代を見て果たしてそんなことが転がっているだろうか。
食べ物が余っている時代。
人権意識が今ほど高まっている時代は過去に例がなく、人は存在するだけで守られるべきものとなっている。
今は負けても「ただですむ」時代だ。
そんな時代に育った若者に「競争しろ」という言葉がどれだけ響くのか。
「競争」は化石になった。
「ラブレター」という言葉と同じように、すでに物語の中でしか見られない、という時代がすぐそこまで迫っている。
もちろん競争のいい面をないがしろにするわけじゃない。
競争することで自分の能力が磨き上げられていくことも大いにあるだろう。
ただそれは逆に言えば競争しないと何もしないということでもある。果たしてそれでいいのだろうか。
「受験に失敗したくないから勉強する」から合格したら全く勉強しなくなる。
「勉強が好きだから勉強した。気が付いたら受かっていた」
これがあるべき姿だろう。
モチベーションの源泉という観点で言えば、競争というのは外部からの刺激でモチベーションを高めようというアイデアだ。
ただそれでは今の時代上手く事は運ばない。
というかもう十年以上前からそう言う時代ではない。
内からモチベーションを高める時代だ。
一昔前の自己啓発ブームもそういった時代の副産物なんだろうと思う
そういった意味では菅首相は今の時代では総理になる器ではなかった。
彼とは話したことはないが、経歴を聞く限りは「競争」信者だ。
友情・努力・勝利が三度の飯より好きに違いない。
「生活保護がある」発言がそれを物語っている。
一昔前ならいい総理になれたかもしれない。要は彼も生まれる時代を間違えていたのだろう。
っていうとりとめもないことを「うっせぇわ」を聞きながら考えていた。
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