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【俵万智の一首一会⑦】近江瞬との出会い

何度でも夏は眩しい僕たちのすべてが書き出しの一行目 近江瞬

 初夏の風のように届いた一冊の歌集『飛び散れ、水たち』。その巻頭歌に、心を奪われた。まっさらな目で世界を受けとめ、丁寧に日々の物語を紡いでゆく。この歌のような気持ちを、自分も大事にしたいな、と思った。


 日常は繰り返しのつみかさね。その中で新鮮さは失われ、当たり前のことになってゆく。次に新鮮さを感じるのは、残念ながらそれが失われる時であることが多い。たとえば夏が来るということも、当たり前の一つだ。けれど今年は、いつも通りの夏にはならないかも……そんな予感の中で暮らしていたから、よけいこの一首の眩しさが心に沁みたのかもしれない。


 散文では成立しにくい言葉遣いで、省略と定型の力を用いて伝えてしまう力技にも驚く。作文の指導なら「何度でも」と「すべてが」あたりに添削が入るだろう。下の句の「すべてが書き出/しの一行目」という句またがりも、難易度が高い。

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 次に目が留まったのは、こんな一首。

歩行者を数えるバイトの青年が僕をぴったり一人とみなす

疑いもなく僕は「1」と数えられているけれど、ほんとうにそうなんだろうか。「1」は外形的な器でしかなくて、僕は八割しか満ちていないかもしれないし、逆に溢れているかもしれない。「ぴったり」からは、そんな居心地の悪さが伝わってくる。こういう境界の希薄な感覚が、作者の持ち味のようだ。


値下げした肉を手に取る僕らたぶんぎりぎり選ぶ側に生まれて

落書きをしようよ北斗七星になれないかすかな星を繋いで

私からわたしを引けばおそらくはあなたに近いかたちが残る


 これらも、境界の希薄さをキーワードに読むと面白い。何かの拍子で家畜に生まれて、しかも値引きまでされる肉の側にいたかもしれない自分。鮮やかに輝く星ではなく、地味にまたたく星をつなぐ遊び。私という器は、私に見えてほぼあなたでいっぱいになっているという現象。つまり、境界の希薄さは、心の自在さなのだと気づく。


 巻末に、短歌と散文を組み合わせた一連があり、作者のプロフィールが見えてくる。

きっと今から悲しいシーンに切り替わる涙の雨と書けば簡単

まとめるのうまいですねと褒められてまとめてしまってごめんと思う

 作者は、東日本大震災の最大被災地とされる石巻出身で、震災当時は東京で働いていた。震災の二年後にUターンして地元の新聞社の記者となったが「当時の記憶を持たないことの劣等感が消えることはこの先もないだろう」と書く。それが劣等感という語で表現されていることに、被災地における感情の複雑さを感じずにはいられない。


 東京で仕事をしていた時は、被災地の出身ということで気遣われ、石巻に戻れば自分はやはり被災者ではないと感じる。ここには別の意味での境界の問題が刻まれていた。


 「あとがき」を読み、最後にもう一度驚いた。「短歌には、古本コーナーで偶然に手に取った俵万智さんのミニ歌集『あれから』で出会った。タイトルの『あれから』は「東日本大震災から」の意味。発災当時、仙台市に暮らしていた俵さんが子どもを連れて石垣島へと移住するまでを詠んだ一冊だった。」


 『あれから』は多くの共感を得るいっぽう、少なからぬ反発もあった歌集だ。歌の神様に感謝したい。一人の歌人が生まれるきっかけとなれたのなら、充分に意味がありましたよねと。

(西日本新聞2020年6月7日掲載/題字デザイン・挿画=北村直登)


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