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【俵万智の一首一会 13】苅谷君代の奇蹟と軌跡

さみどりの風が無色となるまでに道の段差を覚えおくなり 苅谷君代

 短歌を作りはじめたころ『処女歌集の風景』というアンソロジーを手にしたのが、歌人苅谷君代との出会いだった。彼女の第一歌集『雲は未来の形して』が紹介されていた。


軒下の巣に乗り出して五羽の雛・飛び立たなけりゃ燕にならぬ

ひまわりに口づけしていた黄揚羽が飛び去るわたしの十六歳も

一日を終えまたすぐに明日がくるカレンダーには苦しみがない

 なんというみずみずしさだろう。雛は自動的に燕になるのではない。飛び立つという意志と行動を持って、はじめて大人になれるのだ。いっぽうで、十六歳という時期は、黄色い蝶が飛び去るように、自分を通り過ぎてしまう。時間が経てば何の苦もなく明日を迎えるカレンダー。三首ともに、思春期の柔らかで鋭敏な、時間との関りが詠まれている。

  心惹かれると同時に、一九七七年の刊行、作者が高校生の時の作品と知り、驚いた。ちょうど『サラダ記念日』(八七年刊)を準備していた頃である。十年前に、こんなに豊かに口語を使いこなしていた人が既にいたわけで、自分は突然変異ではないんだと改めて思ったりもした。

 

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 先ほど、歌人苅谷君代、とわざわざ書いたが、それには理由がある。実は苅谷さんとは職場が同じだった。神奈川の県立高校に、私が新米教師として赴任した時には、すでに在籍しておられた。ものごし柔らかで、温かなお人柄。双子を育てる働くママでもあった。

 私が退職してからは、歌集を送りあったり、彼女の第四歌集『初めての〈青〉』の書評を書かせてもらったりというお付き合いが続いた。


活字なき日々はつらかりこの夏を本一冊も読まず逝かしむ

啄木はぢつと手を見るわれも見る見てもそこには存在しない手

 『初めての〈青〉』を読み、彼女が視覚障害のため休職を余儀なくされたことを知った。先天性緑内障の進行だった。「つらかり」というストレートな心情の吐露を、「夏を逝かしむ」という詩情が支えている。本を読まずに過ごすことは、夏という時間を殺すことなのだ。「ぢつと手を見る」と啄木は感傷に浸ったが、その手を見たくても見られない現実を、作者は見つめている。

  そして昨年、第五歌集『白杖と花びら』(ながらみ書房)が出版された。
 

「障害も個性」とふ記事に何となく頷くことのできぬわれがゐて

ぶつかりて「チッ」と舌打ちする男わたくしだつてあなたは嫌ひ


    障害者というカテゴリーで一括りにされることへの抵抗感。「障害も個性」と言うそばから、抜け落ちてしまう一人一人の個性があるはずだ。二首目は、そんな作者の個性が弾けて、拍手をしたくなる。舌打ちされて打ちひしがれるのではない。そんな輩は、こっちだって願い下げだ。下の句の口語が、凛としつつもパンチが効いていて、十代から磨かれた苅谷節の健在を感じさせる。

 歌集タイトルにもある「白杖」に慣れるまでの苦労は、なかなか想像しづらい。その感覚を、掲出歌はみごとに伝えてくれる。初夏の爽やかな風を、私たちは簡単に「さみどりの風」なんて呼んでしまうけれど、そんなふうにイメージで捉えていてはダメ。風は風として冷静に、その無色の軌道を捉えねばならない。白杖で道の段差を覚えるとは、そういうことなのだ。「ガムは味がなくなってからが本当のガムの味」という野田秀樹の芝居のセリフを思い出した。風も無色になってから、なのだ。

(西日本新聞2021年6月4日掲載/題字デザイン・挿画=北村直登)


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