【俵万智の一首一会③】非正規の翼
牛丼屋頑張っているきみがいてきみの頑張り時給以上だ 萩原慎一郎
優しい男だな、と思う。牛丼屋といえば、時間の余裕も、お金の余裕もあまりない時に行くところ。そこで、アルバイト店員の頑張りを、ちゃんと見て肯定している。
萩原慎一郎は、非正規雇用である自分についても多くの歌を詠んだ。それが社会への恨みつらみや他者への攻撃になるのではなく、弱者に寄り添うまなざしへと育ったところに、彼の人間性の深さを感じる。たとえば掲出歌の「きみ」が、「ぼく」だったら、単なる愚痴になってしまうだろう。
「夜明けとはぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから」という一首がある。夜明けという言葉は、前向きな明るいイメージで使われるが、それを逆手にとったレトリックが光る。現実を直視して表現した下の句は切ないが、それだけではない。朝になるまでは、自分は誰の上でも下でもない、自由な何者かなのだ。そういう精神の自由を、彼は短歌によって得たのではないだろうか。「抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ」とも歌う。「ぼく」ではなく「ぼくたち」であるところが、萩原らしい。
弱者に寄り添うまなざしは、おそらく彼の辛い経験と無縁ではないだろう。名門の私立中高一貫校に合格し、意気揚々と入学したものの、そこでいじめを受けた。その後、精神の不調に悩まされながらも、時間をかけて大学を卒業、少しずつ働けるようになり、アルバイトや契約社員として頑張った。十七歳で短歌をはじめ、歌集をまとめるまでの十五年は「不本意の十五年間」と本人が書いている。ただし短歌に関しては、すさまじい数の投稿をし、朝日歌壇賞など多くの賞を受けた。
短歌という翼を得た彼にふさわしく、第一歌集のタイトルは『滑走路』。縁あって私は、帯を書かせてもらった。萩原が短歌をはじめたきっかけが、たまたま近所の書店で催された私と立松和平さんとの共著のサイン会だったという。ある短歌大会の授賞式後のパーティで、本人から直接その話を聞き、嬉しかった。ぜひ続けてくださいね、というような話をしたが、残念なことに、それが最初で最後の会話になってしまった。歌集の原稿を入稿したのち、彼は自らの命を絶ってしまう。享年三十二歳。
『滑走路』は2017年12月に出版されると、歌壇にとどまらず大きな話題となり、新聞やテレビなどでも取り上げられた。現在8刷で累計3万500部にまで達している。多くの人が抱えている社会的な不安を、「自分ごと」として詠みつつ、すぐれたエールにもなっているところが共感を呼んだのだろう。
彼が人生を賭けて詠んだ一首一首が、歌集という滑走路を飛び立ち、多くの人の心に着陸している。その様子を、本人に見届けてほしかったし、まだまだ短歌を作ってほしかったという思いは強い。けれど私たちは、萩原慎一郎という歌人を失ったのではない。歌集出版を機に、萩原慎一郎という歌人を得たのである。残された歌を通して、何度でも彼に会いにいこう。
社会詠ばかりが注目されがちだが、みずみずしい相聞歌も、大きな魅力だ。「きみからのメールを待っているあいだ送信メール読み返したり」。言葉を大事に、慎重に扱う人ならではの一首。「遠くからみてもあなたとわかるのはあなたがあなたしかいないから」シンプルで深い下の句に、胸を打たれる。
(西日本新聞 2019年10月7日掲載/題字デザイン・挿画=北村直登)