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【俵万智の一首一会⑤】沖縄への理不尽

 椅子とりゲーム何度やっても一人だけ残され続けている沖縄 松村由利子

 若山牧水賞が決まった第五歌集『光のアラベスク』の一首。松村由利子は沖縄の石垣島に移住して十年になる。本来なら、沖縄だって椅子に座る権利があるし、他の都道府県が座れないこともあるはずだ。それなのに。「残され続け/ている沖縄」という句またがりが「ている」を強調し、不合理な継続のニュアンスを絶妙に伝えている。


 歌集では次の一首が続く。

椅子ひとつ足りぬルールを押しつけて仲間だよねとまた押しつける

都合がいいだけの仲間扱いは、仲間はずれよりも残酷だ。無邪気な遊びを比喩に用いながら、沖縄に対する邪気を、鋭く描いた歌である。

 沖縄を詠むことについて、第四歌集『耳ふたひら』のあとがきに、松村はこう記す。「……どんなに長く住み続けても、沖縄の人たちの歴史的な痛みを深いところで理解することはかなわないという、断念に似た悲しみも抱く」と。簡単にわかったつもりにならない。けれど旅人とは違う。抑制をきかせた生活者としての実感を大事にする中から、静かににじみ出てくる怒り。彼女の沖縄詠は、元新聞記者の社会感覚と、歌人としての抒情が、みごとなバランスを保っている。

 「同じモチーフの反復は私にとって、明るみを希求する祈りのようなもの」と松村は語る。沖縄の置かれた理不尽な立ち位置は、これまでの歌集でも、アラベスク模様のように繰り返し詠まれてきた。

体内に異物受け容れ吐き出せぬ沖縄という貝の抱く闇(『大女伝説』)

時に応じて断ち落とされるパンの耳沖縄という耳の焦げ色(『耳ふたひら』)

集合写真に小さく円く穿たれた一人のような沖縄 今も(『耳ふたひら』)


 基地という異物を、真珠のように移植されている沖縄。パンの一部でありながら、場合によっては切り捨てられる耳のような沖縄。その耳は、戦火に焦げている。集合写真に間に合わなかった人のように、体裁だけは集団の一員だが、明らかに何かが違う沖縄。いずれの歌も、切なく美しく身近な比喩が、有無を言わさぬ説得力で迫ってくる。それは声高なスローガンよりも、ずっと胸に響く。

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 彼女の新聞記者時代に、仕事でご一緒する機会があり、石垣島移住のお知らせもいただいていた。2011年、東日本大震災が起き、当時仙台で子育てをしていた私は、余震と原発の心配から、息子を連れて西へ向かった。そこで救いの手を差し伸べてくれたのが、由利子さんである。「そういうことだったら、ウチへいらっしゃい」と、海の見える二階の部屋を空けてくれたのだった。当初は、春休み中というつもりだったが、すっかり島の暮らしに魅せられ、そのまま五年が経ってしまった。竜宮城から帰れなくなった浦島太郎のように。
 

 今、私は宮崎に住んでいるが、ある時こんな連絡があった。「ウーマンラッシュアワーの村本大輔さんの独演会が新宿であるから行かない?」。村本さんは、基地や原発の問題を果敢に取り上げるお笑い芸人だ。私も大好きだが、生で聴くという発想はなかった。この行動力と現場主義も、彼女の歌の厚みを支えているのだろう(新宿、ご一緒しました)。

 たぶん私は、作者と近すぎる読者だが『光のアラベスク』には、日常からは見えない深部が多く詠まれていて新鮮だ。

甘やかに雨がわたしを濡らすとき森のどこかで鹿が目覚める

こんな由利子さんには、歌集の中でしか出会えない。

(西日本新聞2020年2月3日掲載/題字デザイン・挿画=北村直登)

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