見出し画像

どこまで続くか 1  過去自体はこれからの私に影響を与えない

過去は「かつてあった事実」であり変えられないため、過去が今の自分をつくっている(規定・制限している)との認識を長らく持っていた。
だから、「過去は今のパフォーマンスに影響を与えない」と言われた時に、希望と同時に疑いを捨てられず、しかしその為に一人で自己嫌悪しているのも生産性が無いということで改めて考えてみる。

成人健常者で「過去」の言葉を知らない人はいないであろうが、過去とは何だろうか。私たちの手元にはいつも記録と記憶しかない。記憶も記録も、辿ることができるのは現在であり、私たちができるのは現在から「かつて」を想起することだけであり、過去そのものに触れられることは決してない。

1) 「過去」は現時点の感情、信念体系を補強する為の情報に過ぎない
では、私たちが想起する「過去」はどんなものだろうかと考えると、必ず特定の感情や印象、信念(とまでいかずとも宣言に近いようなもの)と結びついている。この時私たちは過去(という主役となる対象)を通じて何かを感じていると認識しているが、実際は主従が逆であり、感情や信念が先であろう。私たちが生きていることを実感し世界を認識するために不可欠な臨場感は、物理的な世界と直結した今にこそある。PTSD等、脳に損傷を受けたケースは例外であるも、私たちは「(思い出すべき)過去」を選び、そこに伴う感情や命題を抱えているだけなのではないか。

2) 私たちが縛られているのは過去の事実ではなく、過去に対する評価
私たちは事実と評価の切り分けが苦手である。記憶に限らず、目の前の状況をしばしば「成否」で捉えるが、これは評価であって事実ではない。
評価は人為的な所作であり、対象や観点を変えれば真逆の帰結ともなる。何でもかんでも「振り返れば良いものだった」と考えるのは無理があろうが、過去を想起した時に伴う感情が、変質しうる評価に紐づくものであると認識するだけで、過去にとらわれる感覚から解放されるように思う。

3) 過去の「否」が現在・未来にも当てはまる因果はない。
とはいえ、過去の状況に対して強すぎる感情を伴っており、それを払拭できない場合もあろう。この時にも「かつてと全く同じ状況が今後起こる因果はない」という話は処方箋となるかもしれない。
水素と酸素が結合した時に水が現れるのは、元の物質が一定だからである。人は絶えず変化しており、目の前の状況に向きあう自分も異なれば、向き合う状況も過去と同一であることは有り得ない。全く同じ結果があるのだとすれば、元の存在である自分が変わらず、目の前の状況を過去と同一視しているからであろう。


こうして考えると確かに、過去は普段意識されるよりも余程遠くて曖昧な存在である。

思い出すだけで嫌な気持ちがこみ上げ、挑戦意欲をそぐような自身の能力・姿勢が不適格であった記憶は沢山ある。沢山あるが、その想起をするよりも、次何ができるのかを真っすぐに思考して挑戦を続けることが、結果的に過去を乗り越えることになろう。

ということで定期的に脳みそを使ってアウトプットしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?