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病気と逃げ

皆様、こんにちは。静岡県東部にてタロット占術家(占い師)をしておりますタウザイン藤澤です。

昨今は、様々な医学的な発見やデータによって、新しい病気や病気の名称、捉え方が変化して、なかには『これも病気になるんだ』と驚くことが良くあります。

病気として認定、認知されて治療ができるようになることは素晴らしいことです。完治は難しいとしても、お薬とうまく付き合いながら、楽しい生活や穏やかな日常を感受できることは、可能性の広がりや未来をきちんとみることができることに繋がりますから、病気の当事者からすれば、望外の喜びです。

ですが、ごく稀に『病気を武器や逃げる言い訳にする』方もおられます。
確かに公として『病気』であれば、誰も疑問は抱かないし、病気というのは、どのようなものであれ、当人しかわからないものですから当人が語るままに支援したくなるものでしょう。

しかし、『病気』を理由や言い訳にして
『仕方ない』
『できない』
『助けるのが当然で、助けを求めるのは当たり前』
と考えて思考や行動の起点にするのは間違いだと私は思います。

私は幼少期から思春期まで身障者リハビリ施設で生活をしていました。
今から三十五年以上前の頃です。当時は現代ほど障がい者に対する理解がなかった時代です。蔑視、蔑み、疎外などは日常でした。
そのような中、私のいた施設では定期的に周辺にある小・中・高校の生徒さんがボランティアで施設を訪問する交流会が開かれていました。基本、生徒さん一人に施設の児童一人のマンツーマンで三時間ほど一緒に過ごします。
その交流会で、施設の児童の何人かが、普段は普通に車イスを操れるのに交流会の時だけは『操れないフリ』をして生徒さんに甘えていました。施設の職員に注意を受けて、通常に戻り、生徒さんが驚くという場面を私は幾度となくみてきました。また、職員がいないところで生徒さんに甘える児童も少なくありませんでした。
『子供なのだから仕方ない』
と理解するのは悪いことではないかもしれません。ですが、『病気は得を生む』という意識が子供の頃に固まってしまうと、成人して社会に出たり、他者との本格的な共同生活が始まると固まったものは『権利』と履き違えられてしまい、結果、『自分の人生をきちんと活きる』ことができなくなります。高齢になった時に支援者が一人もいないということにも繋がりやすくなります。
それが本当に良いことでしょうか。

確かにできないことに支援が必要ということは絶対的にあります。ですが、まずは自分で努力したり、支援を受けながらも良いやり方を模索したりする気持ちを持つことは決して間違いではないと私は思います。

必ずということはありませんが、私は自分の障害や、最近の病(ガン)において、可能な限り、自分で対処してきました。頼ることは簡単で楽です。しかし、支援者は必ずしも居るということはありませんし、必ず一人で向き合う時間はあります。その一人の時に無駄に嘆いたり、悲観して生を無駄にしてしまうことがもったいないと思っているからです。
そして、そうやって病気を受け入れていると、真に支援が必要な時、不思議と良いご縁が繋がり、必要以上の支援が頂けたり、知識が手にできるということが多々あります。

病気を理由にして、逃げたり、甘えても一人の人生は当人しか責任が持てないものです。
結局、良い人生、幸せとはきちんと病気と向き合い、可能な限り努力し続け、頼るべきことはしっかり頼ることが土台に在って見えてくるのではと私は考えます。



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