どうぞ

【小説】どうぞ

 鞄からイヤホンを出すために、私は畳んだ傘を腕にかけた。制服のスカートにも脚にも触らない角度がある。私はこの角度を中学三年生のときに発見し、高校生になってマスターした。線路と道路を分ける低い柵で朝顔が咲いている。ああいうのって誰が植えるんだろう。勝手に咲くのかな。えー、最初は種持ってこなきゃダメでしょ。頭の中の私が答える。うん、そうだよね。私もそう思う。紫の傘のおばさんが、黄色いカッパを着た犬を散歩させてる。この時期のカッパって蒸れるんだよね。蒸れた犬、臭そう。
 雨って嫌だ。傘は邪魔だし、ちゃんと差しててもどこか濡れるし、電車が混む。ママは、今年は久しぶりに梅雨らしい梅雨ねって言ってたけど、梅雨らしくなんかなくていいから晴れてほしい。
 ホームに人が増えてきた。忘れない内にカーデ着ておこう。電車の中は寒い。弱冷車って表示、あれ絶対ウソでしょ。どっちを向いてもスーツスーツスーツ。サラリーマンばっかり。おっさんって、どうして傘の水ちゃんと払わないんだろう。ちょっと待ってあのデブの人こっち来る? 同じ車両? やだやだ、あっち行けあっち行け……よし! 電車まだかな? 雨で景色がぼんやりしてて、いつもは見える向こうの踏切の辺りが灰色っぽい。あ、あのおじさん、今日もいる。
 おじさんに気づいたのは、いつだったか忘れた。いつもホームの一番端にいる。電車が止まらないところだし、屋根もない。背筋を伸ばして線路の向こうを見ている。何が見えるんだろう。おじさんはグレーのスーツを着て、黒い傘を差している。そんなことより、首に巻いてる真っ赤なスカーフ。あんなのどこで買うんだろう。
 電車が来た。おじさんの前を通り過ぎて停まる。おじさんは動かない。私はささっと電車に乗って、サラリーマンを避けて座った。遠慮なんてしてたら座れない。首をのばして窓の外を見たら、おじさんは同じ場所に立っていた。なんで乗らないんだろう。
 昨日と同じようにホームへの階段を降りる。柵にからまったアサガオの向こう側をおばさんと柴犬が歩いていた。カッパを着ていなくても、柴犬は蒸れてるように見えた。臭そう。雨が降っていないのにじめじめする。どんな日でも散歩しなきゃいけないから、犬って大変だ。私なら、雨の日やこんなべたべたの日は家にいたい。
 汗やばい。鞄からハンカチを出したら、自転車の鍵もいっしょに飛び出した。拾おうとしたら近くにいたサラリーマンに蹴られた。
「あっ」
 あっ、じゃない。目を逸らすな。ごめんなさいって言って拾え。ほんとムカつく。この人の虫歯がひどくなりますように。心の中で呪いをかける。私はサラリーマンを渾身の眼力でにらみつけて鍵を追いかけた。
「あっ」
 おじさんが鍵を拾ってくれた。今日もグレーのスーツを着て、真っ赤なスカーフをしている。私は初めておじさんを近くで見た。思ってたより年を取ってるみたい。おじさんとおじいさんの間くらいだ。髪の毛がふさふさだから、たぶんおじさんでいいんだと思う。やさしそうな顔。目が合って、にっこり笑った。
「どうぞ」
 おじさんは、ファンタジー映画で主人公に味方してくれる魔法使いみたいな声で、自転車の鍵をわたしてくれた。
「ありがとうございます」
 この日から、私はおじさんと挨拶をするようになった。挨拶って言っても、声は出さない。私がホームに着くとおじさんがこっちを見ていて、お互いにお辞儀をするだけ。おじさんのお辞儀はきれいだ。離れていても、おじさんがやさしく笑っているのがわかる。紳士ってああいう人をいうんだと思う。間違ってもうちのパパや、この間自転車の鍵を蹴ったサラリーマンのことじゃない。毎日暑いのに、暑そうにしていないところも紳士っぽい。
 梅雨が明けたら、待っていたみたいにひまわりが咲き始めた。アサガオはずっと咲いてるけど、暑さで溶けそうになってる。電光掲示板を見たら、電車が二両だった。そっか、土曜日だからだ。土曜日に学校行くのって、なんだか損した気分になる。次の次の週は期末テストなのに。別に、家にいても勉強しないんだけど。
 電車はホームの後ろの方に停まるらしい。失敗した。友だちに後ろの車両で待ち合わせって言っちゃった。屋根がない。日焼け止めは塗ってるけど、焼けそう。やだなぁ。日陰から出たら一気にまぶしい。早く新しい日傘買わなきゃ。先週なくしてまだ買ってない。
 今日もおじさんは同じところに立っている。おじさん、日傘差してる! 日傘男子だ! 目が合って、私はちょっと頭を下げた。今日も真っ赤なスカーフ。
「おはようございます。どうぞ」
 おじさんは傘を差し掛けてくれた。え、入っていいの? やさしい。でも、これ雨傘じゃない? まあ、いっか。日陰には変わりないし。暑すぎて傘くらいじゃ涼しくならないけど、まぶしくなくなったのはうれしい。
「今日はお休みではないのですか?」
 うわっ、なんかすごく具体的に話しかけられた!
「部活なんです。私、吹奏楽部で。九月に文化祭で演奏しなきゃいけなくて、それで練習なんです」
 どうしよう。緊張して早口になる。しゃべりすぎかな。おじさん引いてない?
「そうですか。楽器は何を?」
「トランペットです」
「部活は楽しいですか?」
「うーん……ふつう、です。すごくうまいわけじゃないんで」
 曲によっては途中にソロパートがあるけど、そんなのもっともっとうまい先輩がやる。私は大勢の中の一人でしかない。活躍って言えるようなことは何もしてない。でも、部活は好き。友だちとしゃべったり、帰りにコンビニでアイス買ったりするのは楽しい。
 私はずっと緊張してて、なんだか無闇にしゃべり続けた。おじさんはうなずきながら聞いてくれる。いい人だと思った。
 部活の話をすると、たいていの大人はテキトウでイイカゲンな感想を言う。今しかないんだから全力でやれとか、がんばったらいい思い出になるとか、だいたいそんな感じ。そういう大人は信用できない。今しかないなんて、私がすぐ死ぬみたいな言い方しないでほしい。いい思い出にならなくたっていいじゃん。楽しいんだから。大人はみんな「青春」って言葉が大好きで、やたらキラキラさせたがる。キラキラしてない、なんとなく楽しいだけの青春の何がいけないんだろう。
 踏切が鳴り始めた。線路の先から、燃えてるみたいにゆらゆらしながら黄色い電車が走ってくる。
「傘、ありがとうございました」
「いってらっしゃい。練習がんばってくださいね」
 おじさんはにっこり笑っただけで、電車には乗らなかった。
 傘に入れてもらってから、私はおじさんとしゃべるようになった。土曜日の部活の帰りに新しい日傘を買ったから、屋根がなくても紫外線が怖くない。
 おはようございます。おはようございます。川原で花火大会があったようですね。友だちが行ったって言ってました。部活はどうですか。昨日先輩から上手になったねって言われました。もうすぐ夏休みでしょう。その前にテストです。もう一踏ん張りあるわけですね。いってきます。いってらっしゃい。
 今日も、おじさんに見送られて電車に乗る。イヤホンを耳に入れながら、おじさんが熱中症にならないといいな、と思った。おじさんは、奥さんいるのかな。指輪してたっけ? 明日こそっと見てみよう。もしいるとしたら、きっとおじさんにお似合いのかわいい女の人なんだと思う。背が小さくて、顔が丸くて、笑ったらぽこんって唇の両側にえくぼができるような。
 おじさんはサラリーマンなのかな。電車に乗らないってことは、もう退職してる? もしかしてリストラ? 奥さんに言い出せなくて毎朝出勤してる振りしてたらどうしよう。そんなドラマみたいなことってあるのかな。その前に、会社にあんな真っ赤なスカーフしていかないか。そうだよね、普通はネクタイだよね。きっともう退職してるんだ。奥さんと旅行したりしないのかな。退職すると、海外旅行とか行くんでしょ? うちのおじいちゃんとおばあちゃんもヨーロッパ旅行してた。もしかして、奥さん先に死んじゃったとか? 奥さんと電車で旅行した思い出を忘れられなくて、毎日電車見に来てるとか? あの真っ赤なスカーフも奥さんとの思い出の品だったり? そんなドラマみたいなことってある? 本当だったらどうしよう。そんなの悲しいよ、おじさん。なんていうんだろう、この、なんか足踏みしたい感じの気持ち。
 次の日、おじさんの手をこっそり見てみたけど、おじさんは指輪をしていなかった。独身なのか、奥さんが死んじゃって外しているのか、どっちなんだろう。すごく気になる。


 採点日なのに部活なんて、私はとても不幸な星の下に生まれたんだと思う。悔しいから、帰りに絶対アイスを食べる。昨日、男子がプールに行くって話してた。プールいいなぁ。テレビで新しいウォータースライダーのCMしてた。なんかヤバい角度のやつ。乗りたいなぁ。おばあちゃんちに行ってお小遣いもらったら、誰か誘っていこう。
 犬、今日もお散歩がんばってる。全然雨が降らないから、ひまわりもアサガオもしおしおだった。ホームの待合室に扇風機がついてた。遅いよ。もっと早くつけてよ。そうだ。おじさんを誘ってあげよう。私は日傘を差してホームの端へ向かった。
 おじさんは黒い傘を差して線路の先を見ている。
「おはようございます」
 声をかけたら、おじさんは振り返ってにっこり笑った。今日も真っ赤なスカーフをしている。
「何が見えるんですか?」
「どうぞ」
 おじさんは場所をゆずってくれた。私はゆっくりと、卒業式で証書をもらうときのように、おじさんの場所に立った。
 空がものすごく青い。上の方は透き通ってるんだけど、下の方になるとちょっと白っぽくなる。アイスが溶けかかったクリームソーダをひっくり返したみたい。あんな先までひまわりが植わってるんだ。知らなかった。植えた人、大変だっただろうな。暑すぎて景色全体がゆらゆらしていた。タンクトップの男の人が自転車で踏切をわたっていく。車もたくさん通る。太陽が反射してまぶしい。そうでなくても物の色がひとつひとつみんな濃くて、ラメが入ってるみたいにキラキラしてて、目が痛くなりそうだった。
 おもしろいものは何もないけど、青春って言葉が好きな大人には、青春がこんな風にまぶしくて痛い風景に見えてるのかもしれないと思った。
 踏切が鳴り始めた。電車がかげろうを連れてくる。
 肩を押されて、日傘が手から離れた。つかもうとして身体をひねって、でも、届かなかった。買ったばっかりなのに。縁にフリルがついてるの、気に入ってたのに。
 頭と背中が線路にぶつかる。
 あつい。いたい。
 空が青い。
 まぶしい。いたい。
 地面が揺れてる。
 いやだ。いやだ。
 おじさん、助けて。助けてよ。
 いやだ。
 おじさん。
 スカーフ、
 真っ赤だ。

***

 くそ暑い。昨日も一昨日もくそ暑かったし、たぶん明日も明後日もくそ暑い。夏が終わるまでずっとくそ暑いんだ。ああ、くそっ。仕事行きたくねぇ。どうせ今日も残業だ。セミがうるせぇ。木なんか全然生えてないのに、どこで鳴いてんだ?
 なんでもいいから、いいことねぇかな。こないだ給料日でちょっと幸せ気分だったけど、明細の社会保険料と税金の欄見たら一気に鬱になった。
 電車ちょっと遅れてんのか。まあ、いいや。ゲームしてりゃそのうち来るだろ。俺はスマホでいつものパズルゲームを起動した。読み込み遅ぇな。暑いからか? 吹いてくる風も生ぬるい。
 顔を上げたら、ホームの端に誰かいた。あんなとこ電車停まんねぇのに、何してんだ? 縁がやたらひらひらした日傘を差してる。女子高生っぽいな。ん? まだ夏休みだろ? ああ、部活か。そんでも休みだもんなぁ。学生はいいよなぁ。けど、あんな制服の学生この駅にいたか? 初めて見る気がする。あんな、真っ赤なスカーフ。まあ、いいや。俺には関係ない。
 ガム……ない。フリスク、残り一個。口に入れてケースを鞄に戻そうとしたら手がすべった。拾おうとしたら爪先が当たって吹っ飛んでいく。くそっ! 追いかけていったら、女子高生が先に拾ってくれた。
 目が合って、にっこり笑う。
「どうぞ」


Fin.

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