文章について(夜にてマフラーを持っていく月が)

あれは2011年のことだった。
などと始めると仰々しいが、私が大学を中退して震災があって人と別れて、という年だったので覚えている。私はその年、文章を始めた。
それまでは反文章というか、「イメージで思考したい」と卒論にも書いたくらいで、写真第一主義というか(私は大学で写真を学んでいた)、写真だけでテキストはいらない、みたいな。文章は自分でやるつもりはなかった。小説は読んでいたが、あまり幅は広くなかった。
自分が取り組んでいた写真に絶望して、文章を書き始めた当初、「山新文学賞」という地元、山形新聞の8000文字の短編賞に小説を投稿し始めた。毎月1作品が選ばれ、寸評が全員分載る。私は文章を書き始めて4ヶ月目で作品が新聞に載った。本名と顔写真とインタビューと作品と引き換えに3万円貰った。文章で初めて貰ったお金はそういう感じだった。
私は当時、小説だけを始めたわけではなかった。同時に詩も始めていた。少しずつ、少しずつ、詩が溜まっていった。そのほとんどはあまりいい出来ではなかったから、その十数年後に出す第一詩集、第二詩集にはほとんど入れていないが。
そもそもなぜ私が文章を始めたかというと、文章の、受け取った相手が皆異なるものを受け取るという〈健全さ〉に惹かれたからだ。どの文章一つとして、違うものを頭に描くところが魅力的だった。それまでやっていたビジュアル重視の写真は、ビジュアルがドンとありながらも皆異なるものを見ている、という、気持ち悪さがあった。そこに多分辟易したのだろう。それならば、同じように目で(もしくは耳で、という特質もあったろうか)、受け取る文章のほうが、〈当然違うものが頭に描かれる〉という、先ほども述べた〈健全さ〉がある気がした。そんなこんなで文章を始めてから十数年が経った。途中で小説はやめた。苦しくなってしまった、というのもあるし、まあそれよりかは、詩のほうがら向いている、という確固たる自信があったからなのだが。
2年前に第一詩集『さびていしょうるの喃語』を出した。自費出版というやつで、それまで他人の詩集を読んだことがなかったが、これで大丈夫、という、またもや確固たる(あるいは根拠のない)自信があった。おかげさまでいまだに売れ続けている。昨年には第二詩集『町合わせ』(これも自費出版)を出した。手元の在庫ははけた。第二詩集は人の詩集を読むようになってから出したものだが、自分の特性なのかなんなのか、相変わらず詩集を読んだことのない人の本のようだと思える。ここまで2年連続で著作を出したなら、もう毎年1冊出そうと思っていた所に、今年、しろねこ社から声がかかり、『山越え』という詩集が出せた。とてもいいものだ。どこかで見かけたら是非よろしくお願いします。
そして実は去年の段階から決まっていた、このたび発売された双子のライオン堂出版部からの『夜にてマフラーを持っていく月が』は詩の絵本だ。これは実は『山越え』より前に詩は完成していた。
中身の話をしよう。
岸波龍さんの絵はとても面白い。いつか、原画展を書店さんで巡回すると思うが、『夜にて〜』の書籍現物よりも原画が小さいのが、一番に面白いと思った、と言う裏話。といっても私は直接、原画を見たわけではないのだが(山形ー東京間をzoomで繋ぎ毎月会議をした)、普通は原画って、完成形よりも大きく作るのではないか?と思っていた(が、最後までその理由を聞けなかった。つまり今初めてこの話をする。岸波さん、なんでなんですか?)。その効果があったのか、それをはなから狙っていたのか、本には独特の迫力が出た。あと、完成形の一歩手前、というような感じがする。生っぽさというか。
私の詩については、あまりまだ述べないほうがいいだろうか。これから、イベントなどもあるだろう。ただ一つ、言うとするなら、これは詩集ではなく、一つのストーリー(絵本)なのだ、という気持ちで書いた。だから「詩の絵本」なのだ。
これからもっともっと、広まっていってほしい。そう願ってこの文章を書いた。みなさま、『夜にてマフラーを持っていく月が』をよろしくお願いします。

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