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ミッドナイトゴスペルの感想と考察【ネタバレ含む】

 ネットフリックスで先月全8話が完結したアニメ作品「ミッドナイトゴスペル」についての一考察を書こうと思う。この作品は全話を通して繰り返し見ない限りはなかなかそれぞれのパートの意図がわかりづらい構成になっているので、特に第1話は初見では、「なんだこれ…」と当惑し、見る気力が失せてしまう人も多いだろう。しかし、この考察を見る前にまずは全て見てみて、自分で考えることが有益だということは間違いない。なので、1周は終えて2周目に入る前の人向けに、個人的考察をネタバレを含めて書いてみようと思う。さて全話を俯瞰すると、薬の話とゾンビ物を組み合わせただけに見える訳の分からない第1話にこそ、この作品の問題提起の全てがある意味で詰まっているように思われるのである。

以下ネタバレ注意。

・「いま、ここ」にある現実だけをみる


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 まず何よりも、この作品のテーマは、「いま、ここ(Be Here Now)」という、第8話において死者たちの乗る列車で、主人公クランシーの隣に座る人物が彼に向けて一番最後に語る一言に集約されていて、その主題が至るところに、全ての物語のレイヤーに繰り返し現れていることに注意して欲しい。第8話のクレジットを見てみると、「ラム・ダス」がクレジットされているだろう。彼はアメリカスピリチュアルの大家で、2019年12月にハワイで死没しているのである。実在した、死者の声がそのままここにサンプリングされているという点がこのアニメの革新的な発想の1つである。第8話のクランシーの母親(ダンカン(誰?)の実母の声であるが、既に死んでいる!)の声も実録である(これについては後述する)。
 「いま、ここ」にいること、すなわち、過去や未来に心を彷徨わせず、知覚される世界を直視し、全ての要素を等価で、自らの依存関係にないものとして捉える、というのは至極当たり前に聞こえるかもしれないが、このことをヒトが自覚して、その事実に向き合うことは本当に難しい。ヒトは、実は常に過去と未来に生きている存在なのである。一方で霊長類の中でヒトに近い知能のあるチンパンジーや、ある年齢を迎えるまでのヒトの赤子は、「いま、ここ」にない物を想像することはしない。彼らのように常に「いま、ここ」にあるということだけを意識すれば、過去の過ちや未来の不安に悩まされることはないだろう。しかし、ヒトは残念ながらそのような生き物ではなくなってしまうものの、同時に「いま、ここ」に向き合う方法を模索してきた。それが大麻やドラッグであったり、西洋魔術であったり、瞑想であったりする。そして、ドラッグで見える幻覚(=サイケデリックなアートの源泉)が、「いま、ここ」にあるものかどうかということも、ミッドナイトゴスペルが提示する問題の一つであると私は考える。第1話では、サイケ世界はある程度肯定されていると解釈可能だが、第5話で開かれる仏教講座では、瞑想で開かれる、この世界の「外」こそが「いま、ここ」であるという思想も導入される。

・「いま、ここ」を意識して、あらゆるものを等価に捉える

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 偉大なギミックであるが、この作品を通して、視聴者は赤子の誕生から死までを追体験させられるだろう。どういうことか。
 この作品の導入的理解を進めよう。主人公クランシーのcvはダンカン・トラッセルという人物であり、コメディアンでありながら自身のポッドキャスト番組を持ち、何百回もの放送の中でゲストと対談を行なってきた。彼の体験をいかして、ポッドキャストをアニメ化しようというのがこのアニメの大雑把な理解であり、実際アニメのストーリーはダンカン扮するクランシーと一人のゲストの対話が軸となり、アニメーションがそこに肉付けを与えるという構成にはなっている。
 ところが、その理解があろうとなかろうと、作品を見始めるとそこには広大な「カオス」が広がっている。つまり、細部まで緻密に描かれた、メタファーに溢れたイラストレーションと、ものすごい速度で、しかもある意味筋が通って展開され続けるストーリーサイケデリックな選曲の音楽、独立しているように思えるが実はアニメと(第8話を除いては)インタラクティブなポッドキャスト的語り。これらの要素の怒涛に当惑しながら、ただその流れに身を任せることを要求される。アニメの中でこれらのメタ的な要素が全て、視聴者にとって等価に訪れて来る、というのが、最初の鑑賞体験となることだろう。それでも我々は「ヒト」であるために、だんだんとポッドキャスト的語りを中心に解釈し、アニメ世界に意味づけを与えていかなければならなく、なる。だがしかし、この視点で各話の語りを聞いてみると、皮肉なことに、延々と、瞑想やら色々な手段によって、ラム・ダスの言うように、「いま、ここ」にいること、「世界をありのままに、全てを等価に見る」ことの必要性が語られてしまう。結局は、このアニメを語りに他の全ての要素を従属させて観るのではなく、全ての要素をあるがままに楽しまなければならないということに気付かされてしまうのである。くどいがつまり、そもそも構造的に赤子としての世界、大人の世界、悟った世界の3つの視点がアニメ全体を通して視聴者に体験させられていると思う。

・改めて第1話考察

 一番外のレイヤにおける「いま、ここ」の法則が示されたところで、第1話を見てみると、驚くべき分かりやすさで種明かしがあった。あるがままの世界をみるためにまず必要なこと、それは西洋的二項対立の克服である。善悪が明白な勧善懲悪の否定は諸々の現代SF作品などで語られているので今更であるが、第1話でこの事実はおさらい程度に描かれている。それはストーリーのレイヤでは「人間VSゾンビ」であり、大統領の語りでは「合法薬物と違法薬物」として登場する。ゾンビを無情に惨殺していく大統領自身の口から出た、「薬は化学物質で、良いも悪いもない。存在するだけだ」との名言は実に皮肉的だ。そして並行するストーリー世界では、結局クランシーと大統領はゾンビに噛まれて感染してしまうのだが、ゾンビになって見て開かれた世界は、まさにユートピア世界なのであった。


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まず僕たちは生まれ
そして死ぬ
生きてる間は大勢が泣き暮らす
泣いて過ごす
一度は見失ったが今はわかる
ゾンビは最高だ
やることも
やられることもない
僕らはゆっくりと動く
走る必要がないから
愛から逃げるのに走る必要があるかい
人生という檻の鍵を見つけた
ゾンビにかまれることで (ゾンビたちの叙情的合唱から)

 素晴らしいではないか。ゾンビを悪だと決めつけていたら、実は彼らの世界は、自我がなく、憎しみもない幸せな世界だったんだ。
 でも、ここまでは正直繰り返しSFで表現されてきた結論であって、少し物足りないだろう。安心して欲しい。ミッドナイトゴスペルはもう一つ上の問いを投げかける。ゾンビは、あるいは薬物の使用は、当人に幸福をもたらす一方で、それらを抑圧する世界においては「悪」として二項対立の片棒を担ぎ、攻撃的であり、状況によっては有害でありうる。「他人を傷つけたら」というもしもを考えるべきだと大統領も言う。この事実への懸念に対するクランシーの提案が瞑想という方法なのであった。龍樹の「中論」なんかで東洋思想に触れたことのある人には理解しやすいかもしれないが、二項対立の超克は重要なテーマで、後半部分のトークは、もっと言えば第2話以降は概して、瞑想あるいはマインドフルネスと呼ばれるものなどによって、如何にして現実の観察者となり、目覚めるのかについても多面的に深められていく。
 第1話においては、既にゾンビ化した大統領を救うために、救急隊が来て解毒剤をゾンビたちに打ち込む。しかし、解毒剤により人間に戻った者たちは、即座に身体の損傷が原因で死んでしまうか、また噛みつかれてゾンビ化してしまうかのどちらかであった。「中毒/治療」の対立もここで逆手に取られてしまう。ゾンビも薬物も、結局は一過性の快楽に過ぎないかもしれない。

・第1話と物語全体の構造の相似形

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 もう気づいている方もいるだろうが、薬物の善悪に関する議論はクランシーの実世界における「合法シミュレーションコンピュータ」と「違法シミュレーションコンピュータ」の対立についてもそのまま適応できる。
 おさらいしておくと、44歳の中年プー太郎クランシーはバーチャル多元宇宙に移動できるシュミレーションコンピュータを購入し、その中の色々な惑星に飛び込んで住人たちにインタビューを行う。しかし、彼のコンピュータは実は、政府によって管理されていない違法なブツであった。その上、「緑の油」によるメンテナンスを怠っていた彼のコンピュータは次第に誤作動を起こし、多元宇宙内の諸惑星はどんどん人が踏み入れられないほど荒廃していく。彼が訪れる地球は、争いが絶えなかったり、グロテスクな怪物が跋扈していたり、どうみても終末的なのである。
 一方で、他の住民たちは合法的シュミレータを使っていて、徹底された管理下で快楽を享受している。そこでは現実は忘れられ、皆が別々の世界に暮らしている。これもまたSF世界のクリシェであるが、現実世界は、皆様のコロナ禍での暮らしはどうだったであろうか。人々はテクノロジーの力で現実の苦しみを忘れ、配信サービスやゲームに没頭してしまえば、面倒なことや不安は忘れられるだろう。格差社会が絶望的に進展しても、それぞれが仮想世界に没頭すれば、裕福ではないという現実からは目を背けられる。サイケデリック全盛の60年代では、大麻やLSDといった薬物が果たしていた役割に、バーチャルの技術がとって変わってしまった現代世界。クランシーの現実世界もまた同様だ。クランシーがそんな荒廃した世界で、自分の配信に耳を傾けてくれる唯一人のリスナーに、ささやかな安心感を覚えていることも、私にとってはよくわかる。
 クランシーの誤作動コンピュータは大麻のようだ。第1話でクランシーが言うように、大麻を吸いすぎると、正気の時にはバカげているように思えるはずの、後回しにしていた現実の心配事があらわになる。見方を変えると、荒廃した諸惑星は目をそらしたい現実にほかならず、そこで出会った他者と真剣に向き合うことではじめて、クランシーは自身の向き合うべき課題と向き合うことが可能となったのだ。「違法」シュミレータ、「違法」薬物は「悪」ではない。問題はそれらと人の関係にある。クランシーが後回しにしていたのは、実存的恐怖であり、究極的には母親の死の受容であった。ある意味で、シュミレータはそこに至るまで、彼が多面的に考えることができるようになるために偶然の機会を提供してくれていたのである。第1話のシュミレータはほぼ「健全」で、出会うべき人をあらかじめ選択して提示してくれていた。大統領のステータスパラメータには、カリスマ性:23とあり、よく見るとサンスクリットでカルマ(業)とタマス・ラジャス・サットヴァター(三種のグナ)のレベルも表示されていて笑った。詳しくはインド哲学のサーンキヤ学派を調べていただきたい。要するに、管理下では出会う対象まで制限されているのだが、次第にシュミレータは故障し、それこそがクランシーに偶然の出会いの機会を与えてくれていた。

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 第2話から第7話までは、死に向き合うこと、他人の声に耳を傾けることと、瞑想のつながりについて、愛についてなどの、クランシーの(次第に気づかされるが、全てダンカンの。個人的な、本当に向き合わなければならない)関心事が深められていく。画期的なのは、各ゲストがアメリカで著名な実在の人物とダンカンのトークであることだ。特に第3話のゲストは驚きで、ダミアン・エコールズで、映画『デビルズ・ノット』で描かれるように、18年間刑務所に入っていた実在の人物だ。彼は刑務所の生活を強いられたことが、魔術に到達する機会になり、自分にとって幸運であったとまで言ってのける。悪は常に必ずしも悪ならず。

・第5話の仏教観

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 ところで、クランシーの生きる現実世界が、シュミレータの世界と大差がないほど非現実的で、あまりにもサイケデリックであることに違和感を持った人はどれくらいいるだろうか。当然、彼の世界はアニメの中の世界であり、仮想的だが、それすらも仕掛けであることに気付かされるのが第5回だ。仏教的世界観をここまで明確にビジュアル化した作品がかつてあっただろうか、ある煩悩まみれの舌切れ囚人が、脱獄を試みるも、看守や他の囚人に邪魔され、射殺される。何度殺されても生き返る彼は、善行を積むことで業を消していき、ついにはクランシーの乗る隕石とともにバーチャル世界の外へ脱出する。ポッドキャストはヒンドゥー教や仏教のインドラネット世界観を説き、自分の存在に核がなく、見えている世界は全てバーチャル世界に過ぎないと力説する。この観点からは、クランシーの(あるいは私たちの)異常な現実世界すら、バーチャル世界に過ぎないだろう。

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 囚人は、シュミレータが表示する自分のステータスを見る(パラメータのカルマの値は0になっている。本当に細かい)。自分が架空世界上に構築されたキャラクターに過ぎないと悟った瞬間に、舌が元どおりになり、澄んだ声で歌い出す。私はベケットのある台詞を想った。
“Birth was the death of him.” “B”唇音の発音ののち、開かれた口の中から”TH”、舌が顔を出す。Birthという単語は陰唇と生命のメタファーだ。囚人は自分だった仮想体を客観視して、新たな世界に自由な生を受けたのである。クランシーもまた、陰唇の形をしたエントランスに顔を突っ込み、多元世界に飛び立つのである。一方第6話で合法シュミレータを使う隣人家族は、顔を全て埋めず、オールを陰唇に突き刺すだけというのは示唆に富む(何が本物の芸術だ)。

・第8話、母の死


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 仏教の概観を知ったところで、新たなる疑問が浮かび上がる。第3話や第4話で言及されていることによると、悟りは一プロセスに過ぎず、瞑想は他者の言葉を聞く練習であるという。話が違うじゃないか。と私は思った。このアニメが新宗教であるという謂れがあるなら、この点である。
 改めて、ADHDのクランシーにとっては瞑想は、他者の言葉に耳を傾ける練習である。だがしかし、これは瞑想が実用的手段に堕したということでは決してない。なんとなれば、アニメ全体を通してみると、クランシーは偶然にでも他者の声に耳を傾けてはじめて、現実と向き合い、母親の死と向き合うことができるようになり、愛という現実の本質に気づけたのであるから。 
 いよいよ本丸の第8話であるが、最も衝撃的な事実は、クランシーの母親はダンカンの母親本人の音声で、その心理学者は2018年を境にもうこの世にいないということだ。非常に巧妙に作られているが、よく聞いてみるとこの回だけはストーリーと音声のインタラクションは一切ないのである。末期癌の母親との生前のポッドキャストを、アニメの体裁にしてそのまま世に出してしまうなんて発想がどこから来るのだろうか。
 クランシー(もはやクランシーのふりはしていないのでダンカンである)のもとに母親が自ら訪れる。ダンカンは赤子の姿に変貌し、非常にプライベートな対談を続ける。次第に二人は老いていく。いま、ここの感覚を共有した二人であるが、母親は寿命を終えてしまう。ところが、ダンカン(男)は妊娠し、天地創造の痛みの結果母親を産むのである(何を言っているのかわからない)。ダンカンは母を育てながら老いていき、愛に包まれた空間の中で昇天する。二人は惑星になり、対話を続ける。ブラックホールに吸い込まれて行く。仮想世界の惑星はそれぞれ、自我の地表を纏った人間であったようだ。地表は剥がれ、核の無くなった母は、「存在の次元」から姿を消す……(何を言っているのかはわからないが、ここで号泣)。

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 絶えられないカオスに、葦たる我々は解釈のメスを入れなければならない。赤子はありのままの世界を見ることはできるが、自分の感情はコントロールできず、拒絶してしまう。第1話でダンカンがまだ仮想空間に没頭していた不埒なクランシーだった頃、妊婦の出産に立ち会っているが、彼女を乱雑に投げたり、自分の思い込みのアドバイスをしてしまっていたが、ここに来てとうとう出産の、地球を一つ生み出すような痛みを体験し、母親の立場に立つことができた。ミッドナイトゴスペルの世界では、シュミレータで他の地球にいくことがある種の輪廻転生であり、輪廻転生がすなわち他者の立場になって考えることであった。だが、ここでもう一段階上の方法が提示される。自分の居場所を確保しながら、観光気取りで靴を集める(”put yourself in one’s shoes”)ことを超えて、完全に相手の立場になってしまうことだ。それを可能にするための練習が瞑想であり、他者との対話だったのである。ダンカンが最も避けられなかった悩みである母の死は、母自身との対話によって解決の道筋が示された。克服不可能な悲しみの感情に対しては、ただそれを受け入れて、泣くこと。自己の崩壊という死の痛みもそうだ。他者の死も、自己の死も同じ手段で受け止められる。慈悲に、愛のエネルギーに満ち溢れた現実の世界を直視する、「いま、ここ」にいることに繋がる。


CMにしよう。

ビー・ヒア・ナウ―心の扉をひらく本 (mind books) https://www.amazon.co.jp/dp/4892031410/ref=cm_sw_r_cp_tau_D-J1Eb513BFJ0


・タイトルの意味

 ミッドナイトゴスペルでは、瞑想、輪廻転生、他者の話を聞くこと、相手の立場に立つこと、死を受け入れること。これらのアイデアが連関しながら、一つの世界を形作っていた。この思想はダンカンの実際のポッドキャストがなければ生まれていなかったものだろう。「ポッドキャストのアニメ化」という斬新なシニフィアンが、以上の深淵なシニフィエと嫌味なく調和して作品が成立していることが本当に素晴らしいと思う。数多の優れた芸術作品がそのように形式と意味内容の一体化を志してきただろう。
 「ミッドナイトゴスペル」というタイトルもしっくり来た。真夜中、皆がそれぞれの夢に没頭し、現実の繋がりが希薄化するなかで、それでも能動的に他者の言葉=福音に耳を傾けること。このアニメはドラッグの一つかも知れないが、悪くは無いだろう。
 長々と語ったが、ただ一つ確かなことは、

こんなアニメ見た事ない!

すでに見た人も、見ていない人も、この解釈は全て忘れて、このアニメの世界に浸ってほしい。

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