YouTuberフィッシャーズに学んだこと。

今や世界9位のYouTuberフィッシャーズも、初めは川で遊んでいるごくごく普通の動画から始まった。
そんな彼等が世界一受けたい授業で伝えたことについて、僕なりに思うことがあるので書いておこう。

原点は川遊びから

フィッシャーズの原点は幼なじみと川遊びをしていた動画から、”魚のようだ”ということで名前をつけたらしい。
動画を撮ったきっかけは思い出作りとの事だが、何事も始まりは本当に些細な出来事なんだと思う。

フィッシャーズの動画の特徴

フィッシャーズの動画の撮り方について聞けば聞くほど、子供たちの心を捉える要素がふんだんに盛り込まれていることが分かる。

それは大きくわけて3つ。
・自分達が楽しむ
・目線を友達にする
・子供達それぞれの視点がある

自分達が楽しむ

これは他のYouTuberも同じかもしれないが、何よりも自分達が楽しいことを動画にすることで、仕事とプライベートの境がなくなり、ストレスを感じることなく仕事が出来るということ。
「楽しそう!」とか「こんな仕事もあるんだ!」と子供達が憧れを抱くのもよく分かる。
楽しんでいる姿が魅力的に見えるのは、きっと何事においてもそうだと思う。

目線を友達にする

これを聞いた時、「親近感の理由はこれか!」と腑に落ちた。子供達は自分達が遊んでいるような目線で動画を楽しむことが出来る。
フィッシャーズを通して擬似的に”遊べる”ことが子供達にとって人気の正体なのかもしれない。
もし僕が小学生だったら、多分めちゃくちゃはまっていた。

子供それぞれの視点がある

これが何よりも僕の心を打ったことだと思う。
運動が得意な子苦手な子、痩せてる子太ってる子。
フィッシャーズには、それにあった様々なタイプのキャラクターがいて、子供達はどれかに自分を当てはめることが出来る。
僕自身、現実では球技をやってもボールが回ってこないし、スポーツは嫌いだった。
でも、フィッシャーズの動画を見ていると、誰もが楽しんでいる。楽しめるように皆が盛り上げてくれている。
自分の視点がある親近感と同時に、
「こんな風に遊べたらいいなぁ」という、子供達の夢もそこにはあった。

フィッシャーズを通して、僕はYouTuberという職業が与えているものの大きを改めて考えさせられた。
「好きなことで生きていく」、「人に夢を与える」その生き方を誰でも出来る可能性がある。
それを教えてくれるYouTuberという職業に憧れる子供達の目は、大人が思うよりもしっかりと未来を見据えているのかもしれない。

僕らは常識に縛られ、自らを縛っている

常々、僕達は常識に縛られがちだ。
仕事は辛くても仕方が無いし、人は我慢しなければいけないと。
そんなふうに思い込み、逃げ場は無いのだと苦しくなっていく。

本当はそうじゃないことを知っている。
心のどこかで分かっている。
だから、楽しそうに仕事をするYouTuberに対して嫌悪感を抱く人がいるのだと思う。

その気持ちは分からなくもない。
「自分が辛い思いをしているのだから、他人もそうあるべきだ、そうあって欲しい。」と同じ場所まで落ちてきてくれることを願う。
人の不幸が蜜の味なのは、”自分と同じかそれ以下だ”と言う安心感から来るものなんだろう。

でも、その感情がそもそも自分を不幸に縛り付けている。不幸になれてしまっている。
地獄に引きずり込む亡者の手のように、人をどれだけ引きずり込んでも、きっと満足はしない。
不幸の渇きが瘉えることは決してな無い。

YouTuberは理想的な生き方の1つだ

YouTuberの多くは、人を幸せにすること以上に自分達が楽しむことを目的にしている。
ゲームの実況やドッキリ、大食いなど嫌いだけどお金のためにやっているというYouTuberは多分いない。
お金のためだけにという理由では、需要だけを考えて動画作成をすることになる。
もし、皆がそれだけを考えて動画を作っていたら、メントスコーラなんてものは生まれなかっただろう。
時に革新的なものは、案外くだらない思い付きから生まれたりする。

自分が楽しく、人も楽しい。
それを仕事に出来る時代に生まれた。
彼らを見習ってみてもいいと思う。
人の不幸を願う暇があるのなら、自分と誰かを幸せにすることに時間を使おうじゃないか。

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