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「ワークの目的を説明しない」という選択肢:わからなさを体験すること

研修やワークショップの冒頭で「ワークの目的」を示すことはとても重要だと言われる。たしかにこれをしっかりやっておけば研修の6割は成功したんじゃないかとも思える。そのくらいこれからやる活動の「意味」を伝えることは重要なのである。

しかしだ。最近それでいいのかなと思いつつある。研修はそれでいいかもしれないけど、考え方をゆさぶるようなワークショップの場合は特にそう思う部分がある。

「よくわからないものをとりあえずやってみて面白がる」

「これが何のために行われているかよくわからない」という場にとりあえず身をおいてみて、わからなさの中で、自分なりに意味を見出すような過程も大切なのではないかと最近感じるのである。

こんなことを考えているときに「老人ホームで生まれたとつとつダンス」という本を読んだ。そこにもこんなことが書かれていた。

西川さんが勉強会でしようとしていることは、わからないことを面白がること。最初はそのわからないことを避けていた職員さんたちも、次第に言葉ではわからないことを受け入れて面白がるようになっていった。(中略)
わからないことがこんなに自由で豊かなんだと感じるためには、まだわからないことを恐れないこと、そのためには西川さんは、「わかることを放棄する」過程をずっとやり続けている気がしている。(中略)
最初は僕のワークショップにも言葉の解説を求めていたようだが、そうではなくて、自分の言葉によって自分がなにかをスタートさせなければいけないというふうに、職員さんも徐々に変化していったように思う。

こうした過程はとても面白い。もちろん、ワークの成功率を高めること、参加者の満足度を高めること、狙った学習活動を起こすことを目的とするならば、ワークの目的を言語化して説明してあげるほうがよいかもしれない。

しかし ワークショップの目的によっては、むしろそれではだめなケースもある気がしていてる。

「これは何のためにやっているのか?」「これをやったらなにが得られるのか?」というのは大事な視点なのだが、それはやはりどうしても参加者の「目的志向の世界」に合わせてしまっている。

もしそうした世界観そのものからの脱脚がワークの目的に含まれるのであれば、不安でもそれを手放さなくてはならない。もちろん、これはやっているほうからしてもとっても怖いことでもあるのだけど。

意味の生成を他者に委ねるというのは言うほど簡単なことではないんだよなあ。




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