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僕らの時代

(年末に暗い文章をシェアするのはどうかな、と思ったのですがこの一年、僕はこんな事を考えてきました。書きたかったし、読んでほしいなと)

自転車に乗ると皆、手離し運転をして遊んだ。
小学生の頃。片手離しは当たり前で、たまには両手を離して乗ってみる。それは勇気というよりは無謀さを競う遊びだった。

どちらが危険に近付けるか、どちらが怪我を恐れないか。チキンレースやロシアンルーレットじゃないけれど、自分を破滅や死に近付けられた方が格好いい。僕らの時代にはそういう美学があった。あれは何だったんだろう。

小学生の頃は剣道を習っていた。夏になれば蒸し風呂のような体育館で朦朧としながら水分も取らずに稽古をさせられた。まだ9歳くらいだったのに。冬になれば寒稽古。裸足で雪の上を走らされた。足の感覚がなくなる経験、裸足なのにブーツを履いてるようだった。どう考えてもイカれていた。

世代の問題。僕らの世代の問題を考える事が多い。上の世代よりは自由や平等を目指しているようでいて、どこか権威主義的だったり、力に対して弱かったりする。前の時代の良くない性質も心の中に強く受け継いでいる。

子どもの頃から30代くらいまで、頭に常にあったのは「何とかして、生き延びないと」という感覚だった。子どもの数や社員の数が今より多かった時代。学校や社会の中には、ある程度を「ふるい」にかけて、生き延びた者だけを相手にしようという明確なメッセージがあった。できる奴とできない奴、いけてる奴とそうでない奴。いくつもの物差しがあり、常に選別されている感覚があった。

何人かは脱落しても仕方ない。もっと言えば死んでしまっても仕方ない。そんなムードすらあった。社内で自殺する人もいたけれど、ひそひそと語られるだけで大きな問題になることはなかった。病んでやめた部下の事を笑って話す上司もいた。
一人一人の命は、今よりも明らかに軽かった。

大切にされなかった経験が心に植え付けるものは何か。自分が大切にされ、同じように誰かを大切にすること。そういった経験が人の尊厳を大切にする姿勢を生むのだとしたら、僕らの世代にはその経験が足りていない。少なくとも僕はそう思う。

もっと上の世代。きっと自分たちの親の世代もそうだったんだろうと思う。戦争や戦後の混乱の中で生きてきた世代は、もっと酷い矛盾や強制の経験の中で歪んだものがあったのか。生き残る為に失うものがあったのか。それは勝手な推測かもしれないけど。

過去の罪をどこまで問うのかという問題はある。あの頃は仕方なかった、と言いたい事は僕にもある。でも無かったことにはできない。罪であっても、傷であっても。

誰もが加害者か被害者か、あるいは被害者であり加害者でもあった時代。
誰かを貶めて、それで終わりにしてはいけない。
怪物のしでかした悪事、ではない。僕らが生きてきた構造、作り出してきた社会のあり方。それはあなたにも関係のある、汚いもの。それを暗闇の中から引き摺り出して明らかにしないといけない。そんな気持ちでこの文章を書いている。

「今とは時代が違った」
それは本当にそうだけど、その言葉で全てを免責してはいけない。今駄目ならば、きっと過去においても駄目だった、はず。過去の時代を否定することは、自分自身の人生を否定されるようで苦しいけれど。

結局のところ、僕の表現の根には「このこと」がある。自分がしてきたいい事の根にも、悪いことの根にも。

終わりにしないと、と思う。自分たちは駄目だとしても、ここで終わりにしないとと思う。

(すみません、明日は朗らかな事を書きます)

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