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「他人の為」「自分の為」

「他人の為に行動する。」
これが如何にも正しいことである、かの如く教育されてきた。そんな気がする。おそらくそんな風に教えられた記憶のある方は多いのではないだろうか。
利己的な言動は抑えられ、利他的な奉仕が賞賛される。そんな社会的風潮のことだ。

では、「誰かの為に行動する。」このような精神性は本当に存在するのだろうか。
今日は、これについて私なりの見解を記すことにする。

「他人の為に行動する。」ということ

・誕生日プレゼントを渡す。
・重い荷物を運んであげる。
・自分の顔をちぎり、お腹を空かせた子に分け与える。(アン○ンマン氏)

上に、「誰かの為に行動する。」ということの具体例をいくつか挙げてみた。上記の例は全て、相手の為の行動であり、素晴らしいことだと一般的には言われている。

では、これらのことは本当に相手の為になっているのだろうか?
少しばかり考えてみよう。

「誕生日プレゼントを渡す。」
ここから掘り下げてみる。
一般的に誕生日プレゼントは貰えると嬉しいものである。また、プレゼントを渡す為に、相手が何を欲しいかを考え、その為に時間を使い用意し贈答するものである。こうして考えると「他人の為を考えた行動である。」と言えよう。
しかし、反対に貰う立場で考えてみると、
「たしかに欲しかったものだけど、自分で選びたかった」
「普通にいらないけど断るに断れない」
「相手の誕生日に何かをあげなくてはいけない」
こんな事を考えてしまうこともあるのではないだろうか。
これを考えると相手の為なのか、疑問がつく。

実際、「相手の為」を考える時、そこにあるのは、本当の「相手」ではなく、自分が想像した「相手」なのではないだろうか。
つまり、自分の想像上の「相手」なら、これを喜ぶだろう。と期待して、プレゼントを選び渡すのだ。

そして、相手の反応が自分の期待通りなのか、それ以上なのか、それ以下なのかで、一喜一憂する。期待以下であると、「喜んでもらえると思ったのに」と、プレゼントを受け取った相手が悪いかのように、落胆してしまうこともある。これは果たして相手の為なのだろうか。
むしろ、相手が喜ぶ姿を見たり、場合によっては自分に好意を持って欲しいから、プレゼントを用意したという、自分勝手な動機に過ぎないのでは無いだろうか。

これは、他のことでも言える。
人間はそもそも、本当の意味で他人のことを100%理解することなんて出来ない。つまり、相手の為を考え行動は、自分の主観で見ている相手の為に過ぎないのだ。 
どこまで考えたとしても、自分の頭で考えることしかできない以上、真に相手の為というのは出来ない様な気がしてくる。

さて、ここまでかなり捻くれた考えを書いてみた。
読んでいただいてる方で、このように考える人もいるのではないだろうか?
「プレゼントの本質は、内容とかではなく、自分のことを考えて時間を使って用意してくれた。」
これが、嬉しいのだと。

まず、私はこの考えが大好きだ。
てか、「本当それ!」って感じだ。
わざわざ自分のために考えてくれたんだ!このことに感動し感謝し、嬉しくなるのだ。仮にその裏に気に入られたいだとか、自分のため、だとか、そんな感情があるかもしれない、だとかは知ったこっちゃない。仮に好意を求めたものだとしても、それ自体は大変嬉しいものではないか。このように私は想っている。
ちなみに、全く覚えなくて良いが、私の誕生日は【6月22日】である。繰り返すが、覚えなくて良い。(もし覚えてくれる人がいたらめっちゃ嬉しいです。笑)

しかし、ここでは一旦それは置いておくことにする。
まず、この反論は今日の議題とずれている。
そもそも、本日のnoteでは「他人の為の行動する」ということがあるのかどうかを論じるからだ。
この論に立ち返ると、時間を使ってくれたことが嬉しいだとかは、どうでも良いことだ。
更に言えば、「相手がその行為の結果、喜ぶか、嬉しいか」これすらも関係ないのだ。

仮に、相手を怒らせたり、悲しませたりする行動でも関係ないのだ。今回は相手の為の行動か如何に焦点を当てている。

こうして考えると、やはり誰かの為に行動する。という裏側には自分の主観は必ず入っており、結局は自分の為だと言えるのでは無いだろうか。

人間はつながりを求める。

では、何故「誰かの為」が善いことかのように叫ばれるのか。
ここからは、疲れたのでザーッと書く。笑

私が考えるに、人間はつながりを求めるからである。
というのも、自分で自分を承認出来ないのだ。よって、他人であったり、社会に認められている、役に立っている、そんな感覚を得ることで承認したいのだ。
これが、何か行動するときに「他人の為」を善とする風潮に繋がるのではないだろうか。

よって、自己承認で満たされていれば、「他人の為」というのは必要ないのではないだろうか。

自分がしたいから、これをする。

実際、そんな精神で活動している人も多いだろう。
むしろ、「他人の為の行動」という中に見え隠れする「個人的なエピソード」や「自分がしたい」と言った動機に人間性を感じ、我々は時に憧れを抱くものではないだろうか。

そして、結局のところそんな人に人は集まるのだ。

終わりに

ここまで読んでいただきありがとうございました!
今までと書き方をだいぶ変えてみましたがいかがでしたか?
今日で16日目続いていて自分でもびっくりしています!
私自身、このnoteは「見てもらいたい」そんな気持ちもある一方「自分の為」「自分が書きたいことを書く」
これを大事にしたいと考えていて、こんなことを書いてみました!!

「他人の為」を意識しすぎると、元来あった「自分の動機」を無視することになりかねません。
「自分の気持ち」を大事に出来るのは自分だけですからね。
たまには、自己中心的な気持ちを振り返ってみるのも良いものだと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました!
明日は17日目!素数ですね!!
おやすみなさい〜



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